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原爆で消えた姉へ 其の3 [原爆で消えた姉へ]

 昭和13年頃だったと思います。或るとき義兄さんの部下という人が、内地へ出張してきたとわざわざ尋ねて来られました。お父さんは下へもおかぬもてなしをされました。そしていろいろ話をきいているうちに、やもたてもたまらなくなったのでしょうね、遂にチチハル行きとなりました。洋服を着たことのないお父さんは着物の上に商人コートを着て、まるで子供が修学旅行にでも行くように、勇んで出かけられました。お姉さんの家で、義兄さんと碁を打っているあの時の写真がいまも私の手もとにあります。半月くらいの滞在の予定が大幅に延びました。私へのお土産はハルピンで買った狐の襟巻きでした。あまりに豪華すぎて、広島でして歩くのに気がひけました。その後戦時中に虫に喰われてしまったので捨ててしまいました。
 いま思うと惜しいことをしたと思います。お母さんも毛皮のショールでした。みんなには指輪や、帯止めにする宝石類でした。しかしお母さんにとって何よりのお土産は、お姉さんの暮らしぶりをきくことでした。お父さんは口数少ないほうなので、
「婿がようしてくれた」
などと思い出してぽつん、ぽつんと言っておられました。
 それから2年ほどたった年の暮れに、お姉さんは里帰りをしましたね。私は結婚して市外の府中に住んでいました。出産をひかえて大きなお腹をしていましたので、お姉さんとどこへも出かけられなくて、歯がゆくて仕方がありませんでした。そして12月31日の夜、私は長男を産みました。なにしろ急だったので、家には私1人でした。隣のおばさんに頼み、みんなに知らせてもらいました。お産婆さんがやっと間に合いました。
 十日市の家では年末の大掃除中だったそうですね。お母さんも来てくれました。一夜明けて元旦、お姉さんは
「美都子さんらしいね、こんなときに。とみんなで言ったのよ」
 と笑っていました。枕もとで用事をしてくれているお姉さんをみていて、私はお姉さんの気持ちをうかがいました。肉親と遠くはなれて単調なくらしのなかで、どんなにか子供が欲しいだろう、妹の私が先に産んでなんだか済まないような気がしました。そしてお姉さんにも早く赤ちゃんができますようにと、心のなかで念じていました。
 お姉さんの1ヶ月程の里帰りも、あっという間にすぎて、帰る日が近づきました。義兄さんの実家へ挨拶など、あわただしい様子でした。それにまた今度は十日市の実家のすぐそばに住んでいた大きい姉さんも、3人の子供をつれて夫のいる北京へ行くことになりました。産後の私は実家へも行かれず、こんなときに家にじっとしていなければならないなんて、情けないやら恨めしいやらで涙がでてくるのでした。お姉さんとの別れもつらいけれど大きいお姉さんまでが遠い北京へ行ってしまうなんてひどい。お母さんは5才、3才、1才の男の子をつれた大きい姉さんにつきそって北京まで行くことになりました。
 寒い日でした。私は産後初めて赤ん坊を背負い、ねんねこばんてんを着て、広島駅へ行きました。みんながとめてもどうしても行きたかったのです。甥たちは汽車に乗るのが嬉しくてはしゃぎまわっていました。お姉さんたちは途中まで一緒なので揃って広島駅を発ちました。朝鮮を経由して奉天までいっしょで、チチハルと北京にそれぞれ向かうのでした。私は奉天での別れがどんなふうであったのかお母さんに聞いてはおりません。おそらくは再会を約して手を振り合って別れたことと思います。いつかまた、きっとあえる。あんなに仲の良かった姉妹ですもの。2つしか年のちがわない2人は小学校も女学校もいっしょに通いましたね。子供のときからおとなしい大きい姉さんと、勝ち気なあなたはよく口喧嘩をしていました。そして2階への梯子段を力まかせに、どた!どた!とかけあがってはお父さんに叱られていましたね。
 お姉さんたちはお互いに、今は別れ別れになっても、若いんだからそのうちきっとあえると思っていたことでしょう。まさかこれが今生の別れになってしまうなんてことは思いもよらなかったことでしょう。私はいま、あの奉天の駅頭の光景を想像しています。涙があふれてとまりません。あのときがお姉さんたちの永久の別れになってしまうなんて。
 私はよく知っています。2人とも自分から好んで遠く満州や北京に行ったのではなかった、親や兄妹と別れ、大好きな広島から離れたくなかったことを。昭和15年の1月のことでした。


其の4に続く
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