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原爆で消えた姉へ 其の4 [原爆で消えた姉へ]

 チチハルへ帰ったお姉さんから年末にとてもいい知らせがきました。それは8月初めに赤ちゃんが産まれるということでした。結婚して6年ぶりの待望の子供ができたのでした。
 カルシウムを摂らせなければと、早速いりこを送るやらで両親も大喜びでした。それからのお姉さんの手紙は赤ちゃんに関することばかりでした。そして昭和16年8月1日に無事に男子を出産したとの知らせがあり、みんなほっとしました。お姉さんたちの生活に張り合いができてよかったね、と噂していました。それにつけても義兄さんの喜びようは、尋常ではなかったようですね。帰宅すると片どきも赤ん坊の傍をはなれないで、抱きたくて抱きたくてたまらない。お姉さんがちょっと目を離した間に、寝かせてあった赤ん坊がいない。「おやっ?」と思ったらお便所にまで抱いていっていた。という話もききました。
 しかし、こうした幸せな日は長く続きませんでした。チチハル飛行体は撤収となったのでした。義兄さんがあれ程のぞんでいた我が子との生活も、1ヶ月あまりで打ち切られてしまいました。まだ首もすわらず、眼も見えない我が子、せめて笑顔だけでも見たかったでしょう、「お父さんだよ」と行って子供の反応も期待したかったと思います。おそらく後髪をひかれる思いであったことでしょう、このようにして官舎の若いお父さんたちと靴音も高く一斉に南の任地へとむけて出発しました。
 それから1ヶ月ほどしてお姉さんは引き揚げて来ましたよね。姉妹のようにして暮らしていた官舎の奥さんたちも、それぞれの故郷へ帰って行かれ、当分は手紙のやりとりが頻繁でした。そして間もなく12月8日、大東亜戦争へと突入していったのでした。2年あまりがたちました。お姉さんは日夜、戦地の義兄さんのことを案じながら、史彦の成長を楽しみに家業にはげんできました。巷にはだんだんと物の姿が消えてゆき必需品ですら不自由になっていっているとき、目を見はるような立派な五月人形を手に入れました。そしてその前に史彦を座らせて写真を撮り、ラバウルの義兄さんに送りました。それが「着いたかね?」と話していた矢先でした。義兄さんの戦死の公報が入りました。昭和19年6月2日ということでした。十日市の隣りの人が府中の私の家に知らせにきてくださいました。私は玄関へ、へなへなとくずれ坐ったまま口もきけませんでした。十日市へかけつけたときに、お姉さんは仏壇の前に坐っていました。私たちは何もいいませんでした。傍でいつもと変わりなく機嫌よく遊んでいる史彦を見るとたまらなくなって、思わず声をあげて泣いてしまいました。
 それからお姉さんは遺骨がかえる日を待ちました。そのときのためにとお父さんの黒羽二重の紋付で、もんぺの上下をつくりました。
 なぜかあのとき朝鮮まで迎えに行くようになるのだと言っていました。その後チチハル時代の同僚の奥さんたちからも夫の戦死を知らせた手紙がきました。みんな申し合わせたように幼な子をつれた若い未亡人になりました。どの手紙にも必ず涙のあとがありました。
 にじんだ字で、「これからは夫の忘れがたみの子供たちを立派に育ててゆきます」
と書いてありました。
 この年の11月、兵隊検査のときは丙種だった37才の兄さんに召集令状がきました。4人の子供に心を残して呉海兵団に入団しました。
 20年の3月、召集をうけて出征されていた熊野のお義兄さんに戦死の知らせが入りました。沖縄作戦に参加して船が沖縄へつく前にやられたのだそうです。お姉さんの姑さんは、2人の息子をつぎつぎと戦死させ、兄嫁もまた2人の幼児をかかえて若い未亡人になられたのでした。この熊野の義兄さんは早く父親を亡くした家の長男として、母を扶け、自分とあまり年もちがわない弟妹たちの面倒をよくみてこられた人です。お姉さんのあのあわただしかった結婚式の前に、なん度かうちへ来られました。まじめで無口な人でした。紋付を着てこちこちになって父親の代役を果たそうとしておられた様子を思い出します。


其の5に続く
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