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原爆で消えた姉へ 其の5 [原爆で消えた姉へ]

 十日市の店に毎日来られるお客さんたちとは、殆どもう親類以上のおつきあいでした。召集で出て行かれた人たちもありました。今から思えばもう尋常な神経では対応できないような日が続きました。でも広島は無気味なくらい、空襲もなく何もありませんでした。毎晩のようにB29が飛んできて、あちこちの都市が空襲をうけていました。皇居も、伊勢神宮も、東京も、そして隣りの呉も空襲されました。呉へ向かうグラマンの編隊を私は家の庭にある防空壕の中から見ました。とてもこわかった。でも広島だけは残っていました。
「広島は川が多いけん、焼夷弾を落としても効果がないんじゃげな」
と、常連の1人が言うと、
「広島だけは残すんじゃげな」
と他の人も言いました。他の都市の被害の状況も、大本営のラジオ放送以外のことを知っていても、うかつには言えません。そんなことを言おうものならすぐに憲兵隊にひっぱられて行かれるのです。十日市の家の近く、私が通った小学校も鉄筋建て校舎の故もあって、憲兵隊の分室になっていました。見知らぬ人がいたら、なんにも言えないご時世でした。毎日店に来られる人たちは、商店の主人が多く、広島から離れられない人たちでした。自分が広島で生活をつづけなければならないことを、みんなで納得しあおうとしているふうに思えました。尤も市民としてのそれぞれ任務はあったのでした。町内会長とか、警防団員とか、市内から出ることを禁じられていました。山下会の橋本幸子さんのお父さんもこの連中のなかの1人でした。私はお姉さんが史彦をつれて熊野へ疎開すればよかったのに、とつい愚痴りたくなります。でも日々の生活の歯車の中でお姉さんのふんぎりはなかなかつかなかったと思います。朝になれば必ず人が集まってこられるし、不足している物品も入ってくるのですから、自分のほうからこれをたち切ることはむつかしかったのですね。年取った両親のこと、また商家という重みが、お姉さんの肩にかかっていました。
 こうして8月6日の朝を迎えたのでした。
 あの日、私は府中の自宅に居りました。晴れわたった空、まぶしい真夏の太陽に今日もまた暑いぞ、と思いました。朝食をすませまだお膳の前に坐っておりました。突然に広島に面したガラス窓が、「ぱぁー」と黄色をおびた白色に光りました。とても異様な光でした。窓側に行き外をうかがい
「昼間に焼夷弾でもあるまいに……」
とつぶやきながらもとのところに坐りました。とたんに、「ばっ!!」と何もかも吹きとびました。私は咄嗟に近くの東洋工業に爆弾がおちた!と思い3人の子供をつれて裏山に避難しました。しばらく様子をみていましたが、その後何事もおこらないふうなので家へ帰りました。家の中は、倒れた家具や、ガラスの破片で足の踏み場もない状態になっていました。道には怪我をした人や、担架で運ばれてくる人や、戸板に寝かされている人もありました。ただごとでない事が、ごく近くでおきた!と思いました。そのとき誰かが
「広島がやられた!」
と叫んでいました。広島のどこがやられたのか?と思い、まさか十日市ではないでしょうね、と言いたかった。まさか?そう思っただけで、胸がせつなくなりました。みんなが被害を受けたような感じで、誰もはっきりしたことはわかりませんでした。
 そのうちに牛田に住んでいた夫の両親と妹たちが、身1つで避難してきました。「隣りから燃えてきたので、消火に努めたが駄目だった。結局何も持ち出すことができなかった」とのことでした。聯隊本部(れんたいほんぶ)にいた軍人2人も逃げてきました。広島駅の裏の東練兵場は、避難した人がいっぱいで、2人は偶然ここで出合ったと話していました。聯隊本部と十日市は近い。
「十日市はどうでした?」
と私はたずねましたが、よくわからない様子でした。みんなそれぞれに自分が直接に受けた事件の大きさに極度に興奮していました。私はそのうちきっと、お父さんもお母さんも、お姉さんも史彦も逃げてきてくれるだろうと思いました。夕方になり夜になりました。でもあなた方は来ません。私は裏山に登り広島をみました。真赤でした。朝から夜まで燃えつづけているのでは、広島はもうなくなると思いました。私は一晩中、あなたたちを待ちました。
 そしていろいろの場合を想像してみました。北の横川へ逃げた場合、南の江波へ逃げた場合、西の己斐へ逃げた場合。東に向かって逃げた場合……それは私の家に通じるのです。みんな一緒に逃げられたかしら?まんじりともしない夜が明けました。近所の家にもいろいろのことがおこっていました。死んだ人も出ていました。でも私はどうすることもできません。16人分の朝食を用意しなければならないのです。近所の人は朝早く肉親をさがしに出られました。いくら十日市が石と瓦だけになっているときいても、何か手がかりがあるかも知れない。しかし、私は探しに行くことができないのです。細ぼそと貯えていた米も、お粥にひきのばしたところですぐに底をつきます。罹災証明書を持って役場で特配を受けなければなりません。火傷をしてぐったりしている軍人さんの手当もしてあげなければ…赤ん坊のおしめの洗濯もあります。私は気が狂いそうでした。お姉さんたちのことで頭がいっぱいで、何もかもうわの空です。
 玄関で物音がすれば、はっと耳をすませるのでした。夜になって、私はお姉さんたちは廿日市の叔母さんのところへ逃げたと思いました。8日は朝を待ちかねて、元気なほうの軍人さんに廿日市へ行ってもらうように頼みました。快く引きうけてくれました。夕方になって帰ってきました。
「廿日市へ行ったら、お母さんと子供さんがおられました。5日の夜、2人で泊まりに行っていて助かったのだそうです。お父さんもお姉さんもまだわからないそうです。僕が『府中のみなさんは無事です』と言ったら、お母さんは泣いておられました」
ということでした。私はお母さんに逢いたい。
 お父さん、お姉さんどこにいるの?怪我をして動けなくなっているの?どこかの家でお世話になっているの?どうして知らせてくれないのよ。こんな、こんなに心配しているのに……。翌朝私はまわりの反対をおしきって広島へむけて出ました。でも途中から引き返してきました。
 お父さんは十日市の家の焼け跡から、完全に骨になっていたのをお母さんの手で掘り出されました。あれから3日たった9日の昼でした。まわりをいくら探してもお姉さんの骨らしいものはなかったそうです。あなたは一体どこへ行ってしまったの?あんなに気丈なお姉さんだったのに……。
 この39年間、あなたを見かけたという人が1人もいません。3軒となりの横山のおじさんは家の前の大きな水槽にしばらく入っていて助かったとききました。そして10年余りも生きておられたのです。うちの家の前にも大きな水槽がありましたのに。でも爆心地から500メートルのところではとても助からないと、日が経つにつれて思うようになりました。でもどうしてもお姉さんだけは例外のようにおもいたかったのです。あんなに頑張り屋のあなたが、可愛い史彦を残して逝ってしまうなんてことはとても考えられません。地を這ってでもきっと逃げのびてくれると思ったのです。あなたの母親としての執念だけででも逃げのびてくれると思ったのでした。でも、とうとうあなたは私たちの前に再び姿を見せてくれませんでした。私は人に
「姉は原爆で行方不明になりました」
と良いながら行方不明ということばのもつ意味が年と共に心の中に次第に重く、大きくのしかかってくるのです。あれ以来お母さんは
「富美ちゃんは、私の身代わりになって死んだ。自分は十日市の家に居るべきはずだったのに。富美ちゃんが死んで自分が生き残っている……」
と、どんなに嘆いておられたことか。年とった自分が残って、子供を育てなければならない若い将来のある者を死なせてしまった。取り返しのつかぬことをしてしまった。と、悔やまれ続けておられました。身代わりにさせてしまったという思いは、お母さんの心の中でくすぶり続けてとうとうあの世まで持って行かれたのでした。
 昭和20年8月15日。あの終戦の詔勅(しょうちょく)をきいた時の口惜しさ、私たちをこんな状況においこんでおきながら、今になってそんなこと。も少し早くやめてくれていたら、お父さんもお姉さんも死なずに済んだのに。と、私はもってゆき場のない思いをどうすることもできず大声で泣きました。お姉さん。アメリカは日本が負けることがわかっていながらなぜ原子爆弾をおとしたのか。使ったか? という意味がずぅーっとあとになってわかってきました。
 私は進駐軍がくるのを恐れて、まえから疎開のために借りていた瀬野の山奥へ移りました。瀬野川は9月16日の枕崎台風によって川土手がけずり取られて道もなくなっていて、とても不便なところでした。だんだんと秋も深くなり山あいでの生活は、心細さがつのるばかりでした。このとき生まれて初めて稲刈りを手伝ったりしました。お母さんも暫く史彦をつれてきていました。私はこんなことをして良いのか? と思うようになり、だんだんと焦りを感じるようになりました。そして夫とその両親がいる京都へ行くことにしました。お母さんは廿日市に行きました。

※東洋工業…現在のマツダ
其の6に続く

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