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山下会の灯を消さないで [山下会の灯を消さないで]

山下会の灯を消さないで
原田 文子  59才(昭和59年当時)


  このごろ思うこと
 健康には人一倍恵まれていると思ってきた私が、被爆者健康手帳を二十数年ぶりに利用することになりました。
 毎年2回行われる被爆者検診を受けてみる気になったのも年をとったせいかも知れませんが、昨年横浜で検査を受けましたところ、手帳に「要精密検査」と記入されていました。そして私は病院でよく診てもらいますと、「高血圧症・狭心症」という病名がつけられました。
 今まで私は定期検診を受けたこともなく、むしろ避けて過ごしてきました。それは原爆を体験した私が知っている核爆弾のはかりしれない恐ろしさと、ヒロシマの地獄を見て、しまったからだとおもいます。私は被爆したことによって、悲惨な思いばかりしてきました。私は、自分の身体に、被爆者としての烙印をおされることが恐ろしかったのです。
 被爆した義兄の原爆症は、名医の治療によっても手のほどこしようがなく、私の見た義兄の症状とその死に至るまでの経過は、原爆病の恐ろしさと残虐性そのものでした。また被爆直後から3日間、家族の安否を気遣って私と一緒にさがし歩いた姉の長女、潤子は、被爆2世でしたが、高校2年の秋に、「溶血性貧血」で3日の生命、と宣告されました。けなげに病魔と闘って、大学2年のとき亡くなりましたが、潤子が若かっただけに、私たちを苦しめ、悲しませました。
 医学的にはっきり解明されていない原爆症は、被爆者にとって、かたときも離れない不安です。
 それだけではありません。私は、助けを求めた隣のおばさんを置いて逃げ出した自分の行為に苦しみ続けました。戦争に巻きこまれ、貝のように口を閉ざしている、旧満州や中国からの引揚者、沖縄戦の体験者たちも、私のような悔恨をもちつづけ、誰にも話したくない、とその体験を秘めたものにしていると思います。でも私は、「戦争だったから、しようがなかった」とは口が裂けても言いたくありませんし、自分の内に押し込めて閉ざしておくこともできませんでした。
 『ヒロシマの朝、そして今』(山下会著・稲沢潤子編・あゆみ出版・1982年刊)に載せた私の3編の中の「土の中の目」(『あさ』9号へ書いたもの)を、石田忠先生は、『原爆と人間』(機関紙連合通信社・1983年刊)の本の中で紹介されました。
 隣のおばさんを助けられず、おばさんに手を合わせて「ごめんなさい」とにげ出した私、もうそのあとは、「恐怖」からのがれ、身を危険から守るために「無我夢中」で逃げた卑怯な私は、自分自身が「人非人」だったと良心の呵責-罪意識をもちつづけていました。
 そのことを石田忠先生は、めん密に分析されました。
 「その時の自分の行動を、「非情」とも、「卑怯」とも批判するのは、いま原田さんが、自分を〈人間の立場〉に置いているからだということにむなります。……あの時の自分は、もはや人間でなくなっていたと見ること自体が、いま原田さんの立場が〈人間の立場〉であることを語っています。原田さんにみる「良心の呵責」-罪意識-とはそのほかの何であり得るでしょうか。  しかし、そのときの行動は、原爆のつくり出した「地獄」が、恐怖の心理過程を通して、原田さんに強制したものであることも事実です。  このことを考えれば、あの「地獄」とは、人間にとっては、その中に置かれるならば人間でありつづけることができなくなるようなものであるとしなければならないことになります。〈人間の立場〉からすればそういわざるを得ません。それを証明しているのが原田さんの体験ではないでしょうか。」(『原爆と人間』40~41ページ)

 昨年3月、先生はご自身の分析が当たっているかどうかをたしかめるために、わざわざ横浜の自宅までお越しになりました。その時の先生の真剣なことばのひとつひとつが、私の古傷に突きささりました。
 今年の3月、私の最も尊敬している、岩手大学の高橋伊三郎先生から次のようなお手紙もいただきました。一部をご紹介してみます。
 「石田忠著『原爆と人間』の中で、原田さんのことがとり上げられていることを知りました。同じものを読みながら、私と石田先生との間に、こんなに読み方の浅い、深いの違いがあるのに驚くと同時に、原田さんの書かれたものが、おそらく同じ体験を心にもなくした人々の中で、書かれた、唯一のものではないかと私は思いました。痛ましい体験、これは満州でも、沖縄でもサイパンでも、戦争にまきこまれた一般市民の誰もが、原田さんと似た経験をもっていると思います。そして、それを書いた人は自分ではなく、見た人の記録が大部分だと思います。第三人称で、事実の報告をした人はあるけれども、原田さんのように、第一人称で書いた人はいない。ここに石田先生は大きく注目したのだと思いますし、又それだけに稀有の記録でもあると思います。」

 私は山下会に参加し、『あさ』に書いてきたことによって、このような立派な、大きな心の先生方との出会いにめぐまれました。勇気をもって、原爆の反人間的残虐さを伝えつづける被爆者としての使命をこれからも続けねばと思います。
 このごろ、私は病院通いがはじまって、とにかくあまり無理をしないようにして、やりたいことをやり、いやなことは避けて通るようになりました。そしていつでも、自分の身辺整理だけはしておこうと思っているのです。

  山下会の思い出
 学習グループ山下会の会員は、それぞれ個性のある、教養を身に付け、行動力のある人たちです。
 戦中戦後の混乱時代を乗り越えた、ヒロシマの母親ですから、少々のことで引き下がりません。たのもしい、感情豊かな母親グループです。
 私は広島から離れて、もう16年になります。離れていても、山下会員の活躍ぶりなど身近に知る機会もあり、時々は広島の会員の方々とも会っております。
 私のいた頃の山下会は、学習グループの手本みたいな会でした。週1回は確実に持たれ自分たちの選んだテキストで学習しておりました。勉強することを取り上げられた戦中派の私は、当時は育児、家事に1日中追いまくられるような生活をしていました。そんな私に、お友達の山下朝代さんは何かを感じたのでしょう、私を学習会に誘ってくれたのです。
 山下会の学習会は「余談」が多くて、よく脱線しました。チューターの先生は、静まるまで笑いながら、それを止めたりなさらずに母親たちの余談を聞いておられました。母親の1人が、
「先生、余談が勉強よ」などと云っておりました。
 この楽しかった学習会で、家庭のことと子育てのことについても、仲間とのふれあいの中で、私は学ぶことができました。物の見方や考え方をしっかりと持った母親になることの大切さを学びました。私にとって学習会は大きな支えでした。今でも私は感謝しております。これからも山下会の灯は消さないで下さい。私が帰広すると、一番先に山下会のたまり場に、身内に会うよりも前に飛んでいけるグループなのですから。
 昨年は娘の結婚、私の健康状態の変化などいちどに被爆にかかわる問題が、我が身にふりかかってきました。山下会の会員も、今迄にその人なりの被爆問題や被爆2世の結婚問題などの苦悩をかかえこんで、それを乗り越えようと努力して、生き抜いてこられました。これは今、私の身近にある、生きた教材となっております。
 娘も婿も私の生き方を理解してくれています。娘の結婚式には山下会の友人にも出席していただきました。婿の御両親は、私が広島で被爆していることもご存知なので、ひとまず安心いたしましたが、娘たちのこれからの永い生涯の間には、妊娠、出産などの人間の営みがあります。そうしたことへの被爆者としての、母親としての、被爆2世としての、またその夫としての不安や恐れはお互いに口にこそ出しませんが、やはりあります。それをさけては通れません。
 山下会と名前がついて、『あさ』創刊号から参加してきましたが、このたびの終刊の話に、20年間の私の歴史をふり返り、『あさ』はも離れがたい、自分の分身のようなものだったと思いました。『あさ』はここで永久に消えてしまうのではなく、また別の、新たなものになってどこかで再生すると思います。
 横浜と広島に離れていても、心のつながりはずっと続きます。皆さん、お互いに身体をいたわって、まだ歩き続けましょう。
(横浜在住)



山下会の灯を消さないで(完)

原爆で消えた姉へ 其の7(完) [原爆で消えた姉へ]

 お姉さん、私は頑張りました。いま振り返ってみて、我ながらよくやってこられたと思います。生きてゆくということはほんとうにたいへんなことですね。私はレールも何もないごろごろ道を、積みきれない程の大荷物をのせた車を我武者羅にひっぱって歩いた、そんな人生だったような気がします。
 子供たちも元気に巣立ってゆきました。この子たちにとって私はこわい叔母さんだったようです。私は父親役を、お祖母ちゃんは母親役をしました。このお母さんも39年4月20日に亡くなりました。史彦が東京の大学を卒業して帰ってきてすぐでした。
 お母さんはきっと「自分の役目は終わった」と思ったのでしょうね。こうして私がなんとかやってこられたのは、両親の余徳のおかげだと思います。ひとさまのお世話をよくして、真面目に暮してきた広島生まれの広島育ちのお父さん、お母さん。私はどうしようか?と迷ったときに、よく子供の頃になにげなく聞いていた両親の言葉を思いだしました。親のことばは私の胸のなかで息づいていたのですね。
 いま、私は私のこれまでにふれあってきた人たちに心から「ありがとう」といいたい気持でいっぱいです。
 でも、これだけは、これだけは絶対に許せないものがあります。
 お父さんを殺し、お兄さんを殺し、2人のお姉さんを殺したものたちです。そうです、お母さんをも殺した、と私は思っております。原爆は私の肉親たちを一度に14人も殺しました。あのときは、戦争に負けたのだから仕方がない、みんなが被害をうけたのだから、私はまん(運)が悪かった、と思っていました。
「愚痴はやめよう」とお母さんを叱ったこともありました。
 平和公園に原爆慰霊碑ができたとき、私は肉親が祀られた、という思いがしませんでした。深い理由はなかったのですが、なんとなく心にそぐわないのです。しいていえば、あの苦しかったときに、行政は何もしてくれなかった、そのときどきの御都合主義でやっている市が、何を今更という思いでした。
 恨みつらみをあげるならばきりがありません。私が世間知らずだったせいもあったでしょう。またあの碑文も気にいりませんでした。最初に見たときに
「おやっ?」
と思いました。
「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」
アメリカが落とした原爆で、肉親がむごたらしい死にかたをさせられたのに、どうして私たちが過ちは繰返しませんとお詫びをしなければならないのかと思ったのです。ね、そうでしょう。私はこのことを誰に話すこともなく、みんな拒否だとばかりにかたくなに思いつづけていました。私はお姉さんを祀るのは熊野に兄嫁さんがたててくださった新しい立派な墓があるから、あれで充分だと思っていました。義兄さんと2人の名前が刻んであります。しかし考えてみたら、その墓のなかには何も入っていないのです。
 2人ともお骨がないのですもの。

 私は昭和42年の冬、樋口一葉を読んでいるということで山下会の勉強会へはじめて出席しました。雰囲気も、話題も私のこれまでつきあってきた人たちとは違っていました。
 聖戦だと思っていたあの戦争も実は侵略戦争だった。戦争の爪あとはいまだに大きく続いていることなど知りました。
「……あの原爆は亡くなった人たちだけでなく、生き残ったまわりの人たちをも苦しめた」
と、チューターの浜本先生が言われたことばは実感として私の胸にじーんときました。私は泣く泣く原稿用紙に向かいました。私は書いていくうちに、お父さん、お姉さんはなぜ死ななければならなかったのか?と考えました。こうして『あさ』に初めて参加し、そのときに私が言った言葉が『あさ』4号の「はじめのことば」となりました。
 お姉さんも外地で侵略戦争の実態を少しはかいま見ておられるでしょう?それはあなたが使っていた現地の人たちのことなど、そう思いませんか?知らなかったとはいえ、ほんとにおそろしいことですね。
 私は十数年前の原水爆禁止世界大会のとき、大ぜいの人の前ではじめて被爆者として発言したときのことを忘れることができません。私はお父さんとお姉さんの死を訴えました。涙がでて声がつまりました。ふと前の人をみると、同じように頷きながら、涙を流しておられるではありませんか。私はこの人たちを信じ、この人たちと一緒に平和のために行動しようと決心しました。それが原爆で死んだあなたがたの死を無駄にしないことだとわかったからです。

 私はこのころ寝つかれない夜など、とりとめもなく昔のことを思い出し、あれこれと考えるのです、お父さんやお姉さんはなぜ死なねばならなかったのか?、と思ってずぅーっと考えてゆきますと、ある人物に至るのです。戦死したお兄さんをたどっていってみてもやっぱりそこへゆくのです。その人を取りまいている人たちは、だんだんと傲慢になってきて、口先だけはいいことをいっても、あなたたちの死の意味をあえて黙殺しようとしているのではないか、国民をだましている、と思えてなりません。
 私は間違った戦争をおこした国に、むごい死にかたをさせられた、あなたがたに対してお詫びをしてほしいと思います。そしてひとり、1人を丁寧に弔ってほしいのです。いままで永いあいだ何もしないで、ほっておかれたことは許せません。手厚く弔うことが「ふたたび被爆者をつくらない」という誓いにもなるのです。私はいま核兵器完全禁止・被爆者援護法の制定をめざす、大ぜいの人たちの輪の中にいます。
 39年たった広島は世界のヒロシマとして注目されています。平和公園の木々も年輪を重ねて緑の枝を大きくはっています。バスを連ねて修学旅行の生徒さんが沢山こられるようになりました。私たちもときおり被爆の体験を話します。子供たちは今でも原爆症で苦しんでいる被爆者や、また自分が被爆したために子どもや孫に原爆の影響が出やしないかとおびえて暮している被爆者がいること、また自分と同じ年頃の被爆2世、3世に思いをはせて、改めて原爆のこわさがわかった、核兵器はぜったいに使ってはいけない! と真剣な表情で言いました。慰霊碑に折鶴を捧げて黙祷をします。
「安らかに眠ってください 過ちは繰返しませぬから」
私たちの悲願であるこの誓いを、子供たちも正しくうけとめてくれることと信じます。
 お姉さんの可愛い孫、靖君はこのあいだ幼稚園対抗の相撲大会で、決勝戦まで勝ち進みました。歯をくいしばって、体中を真赤にして踏んばっている顔は、子供の頃のお姉さんそっくりですよ。
 この子たちがかっての文彦のように、父母の顔も知らず
「いっぺんでいいから、お父さん!お母さんと声を出してよびたい」
などというこんな悲しいことがないように、またみんなが幸せに人間らしく暮してゆけるように。あやまった戦争で泣いたのは、私たち世代でもう沢山です。あのような時代にならないように、私は頑張ります。
 核兵器の開発は、お姉さんたちを殺した広島型原爆はいまや赤ちゃん爆弾になっております。悪魔の兵器といわれる核巡航ミサイル「トマホーク」は体も小さく、命中率ばつぐんで、その威力は広島型爆弾の15倍~20倍といわれています。確保有量は世界中の人間を何回もみな殺しにできるということです。おそろしいことです。
 私は子供たちが心身ともにすこやかに成長して、未来の平和のにない手となってくれることを希っております。私1人の力は小さくても、平和を守る草の根の1人としてこれからも行動してゆきたい。それが生き残った私のつとめだと思っています。
 お姉さん、どうぞ見守ってくださいね。
(1984.6.28)


其の7(完)

原爆で消えた姉へ 其の6 [原爆で消えた姉へ]

 昭和21年3月、私は3人の子供と母の住んでいる廿日市へ帰りました。母と枕を並べてねていると、ついこれから先どのようにしたらよかろうか、という話になりました。幸いに住むところはできた。この家はそら、お姉さんも知っているでしょう、洋服屋の左官町の叔父さんが、こつこつと辛抱して廿日市の野村の叔母さんの裏に建てた3軒の借家のうちの1軒です。借りていた人が終戦になって工場が閉鎖になったため、郷里へひきあげられたのでした。左官町の叔父さんのところは家に居た7人が全滅でした。娘ざかりのいとこたちも即死だったそうです。お母さんは子供たちが寝しずまると、私と離れていたときのことを話されるのでした。知り合いに疎開させていた荷物を、使いの人に取りに行ってもらったところ、「預かっていない」と言われて口惜しかったこと。なかでも一番つらかったことはなんといっても史彦を「手放せ」と言われたことだった。世話になっている妹たちにそう言われると返す言葉がなかったそうです。私は叔母さんたちは現実をみて言うていることがよくわかりました。
「家も財産も失くして、4才の史彦をどうして育てることができるのね?あの子が20才になるまで生きていられるかどうか?73になるのよ。すどい(邪険・冷酷)ようなが、ここはよう考えて、史彦が将来でまよわないためにも、熊野へ渡したほうがいいと思うがね、幸いあちらにはおばあさんも居られることだし…。
お姉さん1人の面倒は私たちがみてあげるから。そのうち四郎さんも復員してくるでしょうし…、でもあれにも4人の子供が居るんじゃけんね」
母は言われて仕方なく熊野へ行ったけれど、仏壇には2人の息子の遺影がまつってあるし、家は兄嫁さんが2人の子をつれてやっておられるし、ここの家も大変だと思い、とうとう何も言わずに帰った。それにいままで史彦はあちらへはめったに行っていないので馴染みもうすく、自分の傍を片どきもはなれようとしなかったということでした。がんぜない子どもでも、自分の身の上におきた重大なことを感じたのでしょうか。母の言葉は続きます。
「私は史彦を手放すことはできない。富美ちゃんに済まんからね、あれは私の身代わりになって死んだんじゃけんね」
しばらく言葉が途切れました。苦しかったあの時のことを思い出して、胸がつまるのでした。
「私はなんべんも死にたいと思った。でも史彦がおるからそれもできず、お寺へ入りたい。どこか入れてくれてのお寺はないだろうか?と思うた」
いままで夫をたよって生きていた母が、年とって突然になにもかもなくなって、どうして生きて行くことができるでしょうか。まして幼い孫までつれて。
 私は、自分の不甲斐なさに涙がこぼれました。あんなに可愛がってくれたお母さんや、お姉さんに何もしてあげられなかった。母に死のうとまで思わせた私は、なんと親不孝な娘だったろう。これからどうしよう。お父さんの有り難みがよくわかりました。この夜私はお父さんやお姉さんの死を悲しむあまりに胸が痛くなりました。このとき私は生まれてはじめてものを思うことで胸が痛くなるということを経験したのでした。
 4月に入って、北京の大きいお姉さんが引き揚げてきました。広島の様子がわからないので廿日市の駅へ降りたということでした。11才と9才と7才の男の子に、体くらいもある程の荷物を背負わせ、自分は四男を背負っていました。やっと家に辿りついたという感じでした。
 私が
「お父さんは原爆で死んじゃったんよ。お姉さんはとうとうわからずじまいよ」
と言うと、がばっと畳に伏せたまま、肩を震わせて泣きました。お母さんも私も泣きました。しばらくして
「大きいお姉さんの家財道具は、お父さんが疎開してくれちゃったけん、助かっとるよ」
と言ったら
「何もいらん!なにもいらん!お父さんが…」
といってまた「わっ」と泣きました。
 それから間もなく大きい姉さんは敗戦から引き揚げまでの無理がたたって寝ついてしまいました。折角いのちがけで故郷へ帰りながら十日市に帰ることもなく、廿日市の仮住まいで亡くなりました。11月12日でした。お姉さん、私はいままたくり返して思います。
 あの奉天の別れが結局は2人の永久の別れになったのですね。戦争という大きな渦の中で2人の若い姉妹は目に見えぬ糸にあやつられながら、死の淵においこまれていきました。
 大きいお姉さんも4人の子供を残してどんなにか死にたくなかったことでしょう。私はその頃は商売を少しずつはじめたばかりで、そのことで頭がいっぱいでした。大きい姉さんの看病も殆んどお母さんにまかせてしまって、今ではあのときにもっとよく看てあげたらよかった、と後悔しています。
 あのころは子供たちに食べさせことに精いっぱいでした。油断していると米びつがすぐに空になるのです。お姉さんが苦心して持って帰った着物も、私の持ちものもつぎつぎと米にかわってゆきました。
 兄さんの戦死の公報が入りました。20年1月12日に、南シナ海ですでに亡くなっていたのでした。亡くなって2年近くなろうとしていたのに、お母さんや兄嫁は今日か、今日かと復員してくるのを待ちわびていたのでした。ここでも幼い4人の子供が残されました。私は十日市の焼跡へ家を建てようと決心したのでした。


其の7に続く

原爆で消えた姉へ 其の5 [原爆で消えた姉へ]

 十日市の店に毎日来られるお客さんたちとは、殆どもう親類以上のおつきあいでした。召集で出て行かれた人たちもありました。今から思えばもう尋常な神経では対応できないような日が続きました。でも広島は無気味なくらい、空襲もなく何もありませんでした。毎晩のようにB29が飛んできて、あちこちの都市が空襲をうけていました。皇居も、伊勢神宮も、東京も、そして隣りの呉も空襲されました。呉へ向かうグラマンの編隊を私は家の庭にある防空壕の中から見ました。とてもこわかった。でも広島だけは残っていました。
「広島は川が多いけん、焼夷弾を落としても効果がないんじゃげな」
と、常連の1人が言うと、
「広島だけは残すんじゃげな」
と他の人も言いました。他の都市の被害の状況も、大本営のラジオ放送以外のことを知っていても、うかつには言えません。そんなことを言おうものならすぐに憲兵隊にひっぱられて行かれるのです。十日市の家の近く、私が通った小学校も鉄筋建て校舎の故もあって、憲兵隊の分室になっていました。見知らぬ人がいたら、なんにも言えないご時世でした。毎日店に来られる人たちは、商店の主人が多く、広島から離れられない人たちでした。自分が広島で生活をつづけなければならないことを、みんなで納得しあおうとしているふうに思えました。尤も市民としてのそれぞれ任務はあったのでした。町内会長とか、警防団員とか、市内から出ることを禁じられていました。山下会の橋本幸子さんのお父さんもこの連中のなかの1人でした。私はお姉さんが史彦をつれて熊野へ疎開すればよかったのに、とつい愚痴りたくなります。でも日々の生活の歯車の中でお姉さんのふんぎりはなかなかつかなかったと思います。朝になれば必ず人が集まってこられるし、不足している物品も入ってくるのですから、自分のほうからこれをたち切ることはむつかしかったのですね。年取った両親のこと、また商家という重みが、お姉さんの肩にかかっていました。
 こうして8月6日の朝を迎えたのでした。
 あの日、私は府中の自宅に居りました。晴れわたった空、まぶしい真夏の太陽に今日もまた暑いぞ、と思いました。朝食をすませまだお膳の前に坐っておりました。突然に広島に面したガラス窓が、「ぱぁー」と黄色をおびた白色に光りました。とても異様な光でした。窓側に行き外をうかがい
「昼間に焼夷弾でもあるまいに……」
とつぶやきながらもとのところに坐りました。とたんに、「ばっ!!」と何もかも吹きとびました。私は咄嗟に近くの東洋工業に爆弾がおちた!と思い3人の子供をつれて裏山に避難しました。しばらく様子をみていましたが、その後何事もおこらないふうなので家へ帰りました。家の中は、倒れた家具や、ガラスの破片で足の踏み場もない状態になっていました。道には怪我をした人や、担架で運ばれてくる人や、戸板に寝かされている人もありました。ただごとでない事が、ごく近くでおきた!と思いました。そのとき誰かが
「広島がやられた!」
と叫んでいました。広島のどこがやられたのか?と思い、まさか十日市ではないでしょうね、と言いたかった。まさか?そう思っただけで、胸がせつなくなりました。みんなが被害を受けたような感じで、誰もはっきりしたことはわかりませんでした。
 そのうちに牛田に住んでいた夫の両親と妹たちが、身1つで避難してきました。「隣りから燃えてきたので、消火に努めたが駄目だった。結局何も持ち出すことができなかった」とのことでした。聯隊本部(れんたいほんぶ)にいた軍人2人も逃げてきました。広島駅の裏の東練兵場は、避難した人がいっぱいで、2人は偶然ここで出合ったと話していました。聯隊本部と十日市は近い。
「十日市はどうでした?」
と私はたずねましたが、よくわからない様子でした。みんなそれぞれに自分が直接に受けた事件の大きさに極度に興奮していました。私はそのうちきっと、お父さんもお母さんも、お姉さんも史彦も逃げてきてくれるだろうと思いました。夕方になり夜になりました。でもあなた方は来ません。私は裏山に登り広島をみました。真赤でした。朝から夜まで燃えつづけているのでは、広島はもうなくなると思いました。私は一晩中、あなたたちを待ちました。
 そしていろいろの場合を想像してみました。北の横川へ逃げた場合、南の江波へ逃げた場合、西の己斐へ逃げた場合。東に向かって逃げた場合……それは私の家に通じるのです。みんな一緒に逃げられたかしら?まんじりともしない夜が明けました。近所の家にもいろいろのことがおこっていました。死んだ人も出ていました。でも私はどうすることもできません。16人分の朝食を用意しなければならないのです。近所の人は朝早く肉親をさがしに出られました。いくら十日市が石と瓦だけになっているときいても、何か手がかりがあるかも知れない。しかし、私は探しに行くことができないのです。細ぼそと貯えていた米も、お粥にひきのばしたところですぐに底をつきます。罹災証明書を持って役場で特配を受けなければなりません。火傷をしてぐったりしている軍人さんの手当もしてあげなければ…赤ん坊のおしめの洗濯もあります。私は気が狂いそうでした。お姉さんたちのことで頭がいっぱいで、何もかもうわの空です。
 玄関で物音がすれば、はっと耳をすませるのでした。夜になって、私はお姉さんたちは廿日市の叔母さんのところへ逃げたと思いました。8日は朝を待ちかねて、元気なほうの軍人さんに廿日市へ行ってもらうように頼みました。快く引きうけてくれました。夕方になって帰ってきました。
「廿日市へ行ったら、お母さんと子供さんがおられました。5日の夜、2人で泊まりに行っていて助かったのだそうです。お父さんもお姉さんもまだわからないそうです。僕が『府中のみなさんは無事です』と言ったら、お母さんは泣いておられました」
ということでした。私はお母さんに逢いたい。
 お父さん、お姉さんどこにいるの?怪我をして動けなくなっているの?どこかの家でお世話になっているの?どうして知らせてくれないのよ。こんな、こんなに心配しているのに……。翌朝私はまわりの反対をおしきって広島へむけて出ました。でも途中から引き返してきました。
 お父さんは十日市の家の焼け跡から、完全に骨になっていたのをお母さんの手で掘り出されました。あれから3日たった9日の昼でした。まわりをいくら探してもお姉さんの骨らしいものはなかったそうです。あなたは一体どこへ行ってしまったの?あんなに気丈なお姉さんだったのに……。
 この39年間、あなたを見かけたという人が1人もいません。3軒となりの横山のおじさんは家の前の大きな水槽にしばらく入っていて助かったとききました。そして10年余りも生きておられたのです。うちの家の前にも大きな水槽がありましたのに。でも爆心地から500メートルのところではとても助からないと、日が経つにつれて思うようになりました。でもどうしてもお姉さんだけは例外のようにおもいたかったのです。あんなに頑張り屋のあなたが、可愛い史彦を残して逝ってしまうなんてことはとても考えられません。地を這ってでもきっと逃げのびてくれると思ったのです。あなたの母親としての執念だけででも逃げのびてくれると思ったのでした。でも、とうとうあなたは私たちの前に再び姿を見せてくれませんでした。私は人に
「姉は原爆で行方不明になりました」
と良いながら行方不明ということばのもつ意味が年と共に心の中に次第に重く、大きくのしかかってくるのです。あれ以来お母さんは
「富美ちゃんは、私の身代わりになって死んだ。自分は十日市の家に居るべきはずだったのに。富美ちゃんが死んで自分が生き残っている……」
と、どんなに嘆いておられたことか。年とった自分が残って、子供を育てなければならない若い将来のある者を死なせてしまった。取り返しのつかぬことをしてしまった。と、悔やまれ続けておられました。身代わりにさせてしまったという思いは、お母さんの心の中でくすぶり続けてとうとうあの世まで持って行かれたのでした。
 昭和20年8月15日。あの終戦の詔勅(しょうちょく)をきいた時の口惜しさ、私たちをこんな状況においこんでおきながら、今になってそんなこと。も少し早くやめてくれていたら、お父さんもお姉さんも死なずに済んだのに。と、私はもってゆき場のない思いをどうすることもできず大声で泣きました。お姉さん。アメリカは日本が負けることがわかっていながらなぜ原子爆弾をおとしたのか。使ったか? という意味がずぅーっとあとになってわかってきました。
 私は進駐軍がくるのを恐れて、まえから疎開のために借りていた瀬野の山奥へ移りました。瀬野川は9月16日の枕崎台風によって川土手がけずり取られて道もなくなっていて、とても不便なところでした。だんだんと秋も深くなり山あいでの生活は、心細さがつのるばかりでした。このとき生まれて初めて稲刈りを手伝ったりしました。お母さんも暫く史彦をつれてきていました。私はこんなことをして良いのか? と思うようになり、だんだんと焦りを感じるようになりました。そして夫とその両親がいる京都へ行くことにしました。お母さんは廿日市に行きました。

※東洋工業…現在のマツダ
其の6に続く

原爆で消えた姉へ 其の4 [原爆で消えた姉へ]

 チチハルへ帰ったお姉さんから年末にとてもいい知らせがきました。それは8月初めに赤ちゃんが産まれるということでした。結婚して6年ぶりの待望の子供ができたのでした。
 カルシウムを摂らせなければと、早速いりこを送るやらで両親も大喜びでした。それからのお姉さんの手紙は赤ちゃんに関することばかりでした。そして昭和16年8月1日に無事に男子を出産したとの知らせがあり、みんなほっとしました。お姉さんたちの生活に張り合いができてよかったね、と噂していました。それにつけても義兄さんの喜びようは、尋常ではなかったようですね。帰宅すると片どきも赤ん坊の傍をはなれないで、抱きたくて抱きたくてたまらない。お姉さんがちょっと目を離した間に、寝かせてあった赤ん坊がいない。「おやっ?」と思ったらお便所にまで抱いていっていた。という話もききました。
 しかし、こうした幸せな日は長く続きませんでした。チチハル飛行体は撤収となったのでした。義兄さんがあれ程のぞんでいた我が子との生活も、1ヶ月あまりで打ち切られてしまいました。まだ首もすわらず、眼も見えない我が子、せめて笑顔だけでも見たかったでしょう、「お父さんだよ」と行って子供の反応も期待したかったと思います。おそらく後髪をひかれる思いであったことでしょう、このようにして官舎の若いお父さんたちと靴音も高く一斉に南の任地へとむけて出発しました。
 それから1ヶ月ほどしてお姉さんは引き揚げて来ましたよね。姉妹のようにして暮らしていた官舎の奥さんたちも、それぞれの故郷へ帰って行かれ、当分は手紙のやりとりが頻繁でした。そして間もなく12月8日、大東亜戦争へと突入していったのでした。2年あまりがたちました。お姉さんは日夜、戦地の義兄さんのことを案じながら、史彦の成長を楽しみに家業にはげんできました。巷にはだんだんと物の姿が消えてゆき必需品ですら不自由になっていっているとき、目を見はるような立派な五月人形を手に入れました。そしてその前に史彦を座らせて写真を撮り、ラバウルの義兄さんに送りました。それが「着いたかね?」と話していた矢先でした。義兄さんの戦死の公報が入りました。昭和19年6月2日ということでした。十日市の隣りの人が府中の私の家に知らせにきてくださいました。私は玄関へ、へなへなとくずれ坐ったまま口もきけませんでした。十日市へかけつけたときに、お姉さんは仏壇の前に坐っていました。私たちは何もいいませんでした。傍でいつもと変わりなく機嫌よく遊んでいる史彦を見るとたまらなくなって、思わず声をあげて泣いてしまいました。
 それからお姉さんは遺骨がかえる日を待ちました。そのときのためにとお父さんの黒羽二重の紋付で、もんぺの上下をつくりました。
 なぜかあのとき朝鮮まで迎えに行くようになるのだと言っていました。その後チチハル時代の同僚の奥さんたちからも夫の戦死を知らせた手紙がきました。みんな申し合わせたように幼な子をつれた若い未亡人になりました。どの手紙にも必ず涙のあとがありました。
 にじんだ字で、「これからは夫の忘れがたみの子供たちを立派に育ててゆきます」
と書いてありました。
 この年の11月、兵隊検査のときは丙種だった37才の兄さんに召集令状がきました。4人の子供に心を残して呉海兵団に入団しました。
 20年の3月、召集をうけて出征されていた熊野のお義兄さんに戦死の知らせが入りました。沖縄作戦に参加して船が沖縄へつく前にやられたのだそうです。お姉さんの姑さんは、2人の息子をつぎつぎと戦死させ、兄嫁もまた2人の幼児をかかえて若い未亡人になられたのでした。この熊野の義兄さんは早く父親を亡くした家の長男として、母を扶け、自分とあまり年もちがわない弟妹たちの面倒をよくみてこられた人です。お姉さんのあのあわただしかった結婚式の前に、なん度かうちへ来られました。まじめで無口な人でした。紋付を着てこちこちになって父親の代役を果たそうとしておられた様子を思い出します。


其の5に続く

原爆で消えた姉へ 其の3 [原爆で消えた姉へ]

 昭和13年頃だったと思います。或るとき義兄さんの部下という人が、内地へ出張してきたとわざわざ尋ねて来られました。お父さんは下へもおかぬもてなしをされました。そしていろいろ話をきいているうちに、やもたてもたまらなくなったのでしょうね、遂にチチハル行きとなりました。洋服を着たことのないお父さんは着物の上に商人コートを着て、まるで子供が修学旅行にでも行くように、勇んで出かけられました。お姉さんの家で、義兄さんと碁を打っているあの時の写真がいまも私の手もとにあります。半月くらいの滞在の予定が大幅に延びました。私へのお土産はハルピンで買った狐の襟巻きでした。あまりに豪華すぎて、広島でして歩くのに気がひけました。その後戦時中に虫に喰われてしまったので捨ててしまいました。
 いま思うと惜しいことをしたと思います。お母さんも毛皮のショールでした。みんなには指輪や、帯止めにする宝石類でした。しかしお母さんにとって何よりのお土産は、お姉さんの暮らしぶりをきくことでした。お父さんは口数少ないほうなので、
「婿がようしてくれた」
などと思い出してぽつん、ぽつんと言っておられました。
 それから2年ほどたった年の暮れに、お姉さんは里帰りをしましたね。私は結婚して市外の府中に住んでいました。出産をひかえて大きなお腹をしていましたので、お姉さんとどこへも出かけられなくて、歯がゆくて仕方がありませんでした。そして12月31日の夜、私は長男を産みました。なにしろ急だったので、家には私1人でした。隣のおばさんに頼み、みんなに知らせてもらいました。お産婆さんがやっと間に合いました。
 十日市の家では年末の大掃除中だったそうですね。お母さんも来てくれました。一夜明けて元旦、お姉さんは
「美都子さんらしいね、こんなときに。とみんなで言ったのよ」
 と笑っていました。枕もとで用事をしてくれているお姉さんをみていて、私はお姉さんの気持ちをうかがいました。肉親と遠くはなれて単調なくらしのなかで、どんなにか子供が欲しいだろう、妹の私が先に産んでなんだか済まないような気がしました。そしてお姉さんにも早く赤ちゃんができますようにと、心のなかで念じていました。
 お姉さんの1ヶ月程の里帰りも、あっという間にすぎて、帰る日が近づきました。義兄さんの実家へ挨拶など、あわただしい様子でした。それにまた今度は十日市の実家のすぐそばに住んでいた大きい姉さんも、3人の子供をつれて夫のいる北京へ行くことになりました。産後の私は実家へも行かれず、こんなときに家にじっとしていなければならないなんて、情けないやら恨めしいやらで涙がでてくるのでした。お姉さんとの別れもつらいけれど大きいお姉さんまでが遠い北京へ行ってしまうなんてひどい。お母さんは5才、3才、1才の男の子をつれた大きい姉さんにつきそって北京まで行くことになりました。
 寒い日でした。私は産後初めて赤ん坊を背負い、ねんねこばんてんを着て、広島駅へ行きました。みんながとめてもどうしても行きたかったのです。甥たちは汽車に乗るのが嬉しくてはしゃぎまわっていました。お姉さんたちは途中まで一緒なので揃って広島駅を発ちました。朝鮮を経由して奉天までいっしょで、チチハルと北京にそれぞれ向かうのでした。私は奉天での別れがどんなふうであったのかお母さんに聞いてはおりません。おそらくは再会を約して手を振り合って別れたことと思います。いつかまた、きっとあえる。あんなに仲の良かった姉妹ですもの。2つしか年のちがわない2人は小学校も女学校もいっしょに通いましたね。子供のときからおとなしい大きい姉さんと、勝ち気なあなたはよく口喧嘩をしていました。そして2階への梯子段を力まかせに、どた!どた!とかけあがってはお父さんに叱られていましたね。
 お姉さんたちはお互いに、今は別れ別れになっても、若いんだからそのうちきっとあえると思っていたことでしょう。まさかこれが今生の別れになってしまうなんてことは思いもよらなかったことでしょう。私はいま、あの奉天の駅頭の光景を想像しています。涙があふれてとまりません。あのときがお姉さんたちの永久の別れになってしまうなんて。
 私はよく知っています。2人とも自分から好んで遠く満州や北京に行ったのではなかった、親や兄妹と別れ、大好きな広島から離れたくなかったことを。昭和15年の1月のことでした。


其の4に続く

原爆で消えた姉へ 其の2 [原爆で消えた姉へ]

其の1の続き

 昭和8年にお姉さんが女学校を卒業し、私が入学しました。その年の夏休みに宝塚へつれていってくれましたね。あのときの演しものは「花詩集」でした。幕があき、プロローグの場面を今でも鮮やかに覚えています。以来私はクラスで宝塚キチガイと言われていました。男装の麗人小夜福子、葦原邦子の全盛時代でした。いまこの人たちもときどきテレビに出ていますが、若い人たちに往年のスターの話しをしても
「へぇ? あの人が?」
と信じられない様子です。お互いに年をとりました。あの頃のことは古きよき時代だったと言えるのでしょうか?
 昭和10年7月半ばのこと。かねてからお姉さんと縁談のあった軍人のお義兄さんが、突然広島の師団から満州へ転属となりました。出発まで1週間もありません。あれよあれよというまに結納、結婚式、荷造り、出発となりました。てんやわんやのなかで別れを惜しんでいるひまもありませんでした。絽の裾模様、紗の訪問着、丸帯など、結婚式に必要な着物を、宮島の叔母さんはうちに泊まり込んで、近所に住んでいる大きいお姉さんと二人で、徹夜で縫いあげてくださいました。別離のかなしみを味わうなどという閑がなかったのは、救いであったかも知れませんね。でもその後のお父さん、お母さんをみていて、私は遠い満州になど行ったお姉さんは親不孝だなぁと思いました。お姉さんからきた手紙をお母さんはエプロンのポケットに入れていて一日になんべんも、なんべんも取り出してみるのですから封筒はぼろぼろになっていました。お姉さんからのたよりはいつも明るいものでした。ときどき入っている写真をみると、家の前だというぶ厚い土塀の前で義兄さんや、同僚の奥さんたちと撮ったもの、なんだかあたりの風景も殺風景なところのように私には感じられました。またときには同僚の近所の若い奥さんたちとの生活も書かれていました。或るときこんなことも書いてありました。
「『私の郷里の広島はとても良いところですよ。気候はいいし、魚はおいしいし、春になると実家の近くの相生橋から衛戌病院までの川土手の桜の並木がとても素晴らしいのですよ。川の水はすきとおっていて、小さな魚が泳いでいるし、川底の小石もひとつ、一つ見えるんですよ』と近所の奥さんたちに自慢しています」
私などいつもあたりまえのように見ていた広島の光景だったのに、改めて教えられたようでした。外は何もない広野の中に、ぽつんと頑丈な軍の官舎、その中での限られたくらしが、故郷の広島を情緒ゆたかに思いおこさせて、望郷の念をつのらせていたことと思われます。満州とは少女の私にとっては、赤い夕日と見わたすかぎりの広野を想像するだけでした。冬は鼻毛も凍るとききました。でも室内はペーチカで暖かいともききました。
 秋になると広島名産の松茸を、せめてかおりだけでもかがせたくて、お父さんは市場から固いつぼみを買ってきて、ひとつ、一つていねいに脱脂綿をまき、ちり紙につつみ、紙箱にならべ、時間をかけて荷造りをして、郵便局に持ってゆかれるのでした。また、お正月前になると、自分が能美島の沖で釣ってきた「はぜ」を焼いて軒下にぶら下げ、よく乾燥させて送りました。お雑煮のだしに、瀬戸内海の味をあじあわせたかったのです。そして
「もう着いたかな?」「はぁ、なんぼうなんでも着いとるじゃろう」
 と、ご飯のときなど、なんべんも、なんべんも言われるのでした。でもこうして送ったものが駄目になっていたなどという手紙がくると、その落胆ぶりたるや見ていられませんでした。お母さんが
「だから私は、ああしたほうが良いと言うたでしょう…」
などと傍から言おうものなら、たちまち夫婦げんかになったりしました。
 そのうちにお姉さんは若い奥さんたちを集めて、お裁縫やお得意だったお料理を教えてあげているということでした。私はお姉さんがだんだんと本領を発揮してきたな、とほっとしていました。するとそのうち、子供ができない淋しさをうったえてくるようになりました。あとから結婚してこられた若い奥さんたちに、つぎつぎと子供が産まれました。いつもお姉さんは、よその赤ちゃんを抱いた写真を送ってきていましたね。この赤ちゃんが産まれるときに自分がどんなにお世話をしたかなどと、手紙に書いてありました。私も会ったことはないけれど、お姉さんのまわりの奥さんたちのことを、身近に感じるようになっていました。みんな故郷を遠く離れた地で、同じような境遇の人たちの結びつきは私の想像以上のものであったと思われます。

其の3に続く

原爆で消えた姉へ 其の1 [原爆で消えた姉へ]

原爆で消えた姉へ
山本 美都子  64才(昭和59年当時)

 お姉さん
 お姉さんがいってしまった8月6日、誰にも別れを告げないで行ってしまった8月6日、その日がまためぐってきます。あれから39年がたちました。夢中ですごした39年でした。「おぎゃあ」と生まれた赤ん坊でさえ、分別ざかりの年になっている歳月の重みなのに、私には「あっ」という間にすぎてしまったような気がします。私はこの頃になってしきりに昔のことが思い出されてなりません。それは私が年寄りの仲間に入って、昔話をなつかしむ年令になったということなのでしょうか…
 昭和20年の8月6日、あのとき、お父さんは62才、焼けあとから骨になって出てきました。お姉さんは29才、いまだに行方不明のままです。私は25才でした。

 お姉さんがチチハル(中国東北部)から広島へ生後間もない史彦を抱いて帰ってきたのは、昭和16年の秋でしたね。軍人だった義兄さんの所属部隊が撤収になり、行き先は家族にも秘密だったが、支給された服装は夏の物だったので南方だとわかった、と、その時の様子をお姉さんは話していましたね。そして留守家族に対して全員引揚げ命令が下されて、あなたは十日市町の実家で両親と一緒に暮らすことになりました。そして切手、たばこ、菓子、喫茶をしていたお店を手伝いながら、史彦を育てました。それから3年あまりのあいだに、統制、配給などと世相も変わり、商品のたばこ、お菓子類も例にもれず、コーヒーも不自由になりました。でもコーヒーだけはどうしても確保しなければと、生の豆を貨車単位で買いつけたこともありました。そうして店の主導権はお父さんからお姉さんへと自然に移ってゆきましたね。あなたは「あねご」肌で人の面倒見のよさのため、毎日たくさんの人の出入りがありました。生一本な性格は子供の頃とすこしも変わっていませんでした。私にはこわくもあり、また頼もしい存在でもありました。
 子供の頃には二人でよく天神町のお祖母さんのところへお使いに行きましたね。子供の足でかなり遠いように思いました。十日市から相生橋を渡り、慈仙寺の鼻を通って中島へ入り、本通りに出ました。狭い道に家が密集していて、どの家を覗いてみても人の顔があったような気がします。本通りをよぎって、また狭い道に入ります。両側にお店屋さんが並び、その中程にロシヤパン屋さんができました。
 私はロシヤ人夫婦が珍しくて立ちどまってよく見ていましたっけ。突きあたりは洋画専門の世界館でした。看板やスチール写真をみて、ややこしい外国の俳優の名前を、お姉さんが知っているので、えらいなァと思いました。あれはきっと兄さんや大きい姉さん達の話のうけうりだったのでは?……と思います。
 帰り道も賑やかな通りなので、ちっとも退屈しませんでした。お祖母さんにもらったお駄賃で、ロシヤパンを買うのが楽しみでした。
 中島、慈仙寺の鼻も夕方になると街灯にあかりがともり、料理屋さんの門口には打ち水がしてあり、川に浮かんでいる「かき舟」の提灯にもあかりが入っていました。
 いまはもうこの一帯は平和公園の中にすっぽりと入ってしまいました。変わらないのは二つの川筋だけです。
 暑い夏の夜、満潮のときなどにはよくボートに乗りましたね。兄妹4人がかわるがわるボートを漕ぎました。オールの滴が頬にとんできたとたわむれたり、川水に手をつけたり、また見あげると大空に無数の星が輝いていました。
 そうそ、思い出しました。こんなこともありましたね、近所の若い衆が
「三番櫓から飛び込めるかい?」
と言いましたら、水泳に自身のあるお姉さんは、そくざに
「平気!」
と答えました。私はびっくりしました。三番櫓というのは、その頃は相生橋と平行して電車専用の鉄橋がかかっていました。その東から三番目の橋げたのことです。そこは特別に深く、水の色も碧黒く澱んでいて、人が溺れたりして、水泳禁止になっていて、みんなこわがっている所です。あなたは市女(広島市高等女学校)の水泳の1級である証拠の黒い鉢巻をしめて、見事に飛び込みました。ただし、あとでお父さんに知れて大目玉を頂だいいしましたね。あの頃の私たちはのびのびとよく遊んでいましたね。夏休みになると待ちかねて、宮島の伯母さんのところへ泊まりに行きました。そして毎日長浜海水浴場へ泳ぎに行きました。稲荷町や、榎町、堺町、左官町のいとこ達もかわるがわる泊まりに来ました。とても賑やかで楽しかった。みんなは2,3日で帰って行くのに、私は1ヶ月近くもいました。そして主のような顔をして、はばをきかせたものでした。あのときのいとこ達も、あの8月6日を境に殆ど亡くなりました。いま広島市内に残っているのは私ただ1人になりました。
 この頃から少したった頃でしたね、東京音頭が流行ったのは。そしてレコードが飛ぶように売れたそうです。島の娘を唄って有名になった小唄勝太郎姐さんと三島一声が吹きこんでいました。のちに戦時中になると「島の娘」の歌詞のなかで「……娘16 恋ごころ」というところが「娘16 紅だすき」と変えられたりして、どうもぴんときませんでした。
 東京音頭のことでは忘れられないことがあります。左官町の叔母さんに踊りを習いに、毎晩熱心に通いましたね。私はいつもお姉さんの子分でしたが踊りは
「美都ちゃんが上手」
と言われて有頂天になって踊りまくりました。
「はァー 踊り踊るなら ちょいと
  東京音頭 よいよい………」
についで「大阪音頭」も出ました。私たちは遠く廿日市の叔母さんのところへまで押しかけてみんなを集めて大きな輪になって踊りました。いつもまじめな顔をして澄ましているおばさんたちも、結構楽しそうでした。踊りは夜おそくまでつづきました。あげくに私は夜中に大熱がでて、お医者さんをよぶやら、お母さんがとんでくるやらで大騒動をしました。
 今思うのですが、こんなに国民が熱狂的に何かに憑かれたように踊りまくっているとき、その裏では着々と侵略への工作が仕組まれていったのですね。心すべきことですね。私は子供だったのでよく解りませんでしたが、大人たちはどうだったのでしょうか?
 私が小学校3年生のころだったと思います。
 洋服屋の左官町の叔父さんが、夜ふらりとやってきて、
「不景気じゃのう……」
と言われたのを子供心にも暗い気持ちできいたことを覚えています。そしてさっきの踊りの渦はこれから2年くらいたっておこったものでした。

其の2に続く

いしぶみ [絵本・書籍]

3日前、下の子を施設に預かってもらっている間に
食料品の買い物と、久々本屋へ立ち寄りました。

お兄ちゃんに童話とか何かないかなぁ…
と思って物色していて、日本の昔話は結構読んでいるし…
悩みながら陳列棚を見ていると「いしぶみ」に目がとまりました。

いしぶみ.jpg


一旦帰宅し、中古の本を探し当て、今日手元に届きました。
物語ではなく、まさしく記録の本です。
こんな思いを残して若くして亡くなったのかと思うと胸が詰まります。
まだちらりとしか目を通していません、またゆっくり、
様子を見ながらお兄ちゃんと一緒に読めるかしら?
ふりがながふってあったように思うのですが
結構漢字が多いですので、どうしようか考え中です。

ひさびさの投稿です

ひさびさ投稿しました。

「若ものの側の論理」、これは「あさ 18号」に寄せられた原稿です。
学校の先生のようですね。


久しく更新していなかったことも気がかりでした。
PTA新聞は一段落したのですが、
今度は文集への原稿依頼がきました…
それもしなきゃいけないけれども、ここにまず投稿!

体験談はちょっとページ数があるので気合いが必要です。
この18号は終刊号にあたるため、寄せられたメッセージが載っています。
他の号が手元にあるわけではないので、短めの体験談を探すことも出来ず、
ちょちょっと短時間で入力できそうなものをチョイスいたしました。

ちょっと投稿できたから、またやるべき事を済ませるか
途中の軽い気分転換程度で入力できる短い物を
ここに少しずつ投稿していかないと…
もう一つの、思いのままを綴ったブログばかり更新していては
「あさ」をくれた叔母にも申し訳ないですし
折角この会報を多くの人に見ていただければという
思いが志し半ば、いや、三日坊主のようになってはいかん!
ぼちぼちでも、ここに辿り着いた人に読んでいただけるよう
継続していきたいです。
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