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山下会の灯を消さないで [山下会の灯を消さないで]

山下会の灯を消さないで
原田 文子  59才(昭和59年当時)


  このごろ思うこと
 健康には人一倍恵まれていると思ってきた私が、被爆者健康手帳を二十数年ぶりに利用することになりました。
 毎年2回行われる被爆者検診を受けてみる気になったのも年をとったせいかも知れませんが、昨年横浜で検査を受けましたところ、手帳に「要精密検査」と記入されていました。そして私は病院でよく診てもらいますと、「高血圧症・狭心症」という病名がつけられました。
 今まで私は定期検診を受けたこともなく、むしろ避けて過ごしてきました。それは原爆を体験した私が知っている核爆弾のはかりしれない恐ろしさと、ヒロシマの地獄を見て、しまったからだとおもいます。私は被爆したことによって、悲惨な思いばかりしてきました。私は、自分の身体に、被爆者としての烙印をおされることが恐ろしかったのです。
 被爆した義兄の原爆症は、名医の治療によっても手のほどこしようがなく、私の見た義兄の症状とその死に至るまでの経過は、原爆病の恐ろしさと残虐性そのものでした。また被爆直後から3日間、家族の安否を気遣って私と一緒にさがし歩いた姉の長女、潤子は、被爆2世でしたが、高校2年の秋に、「溶血性貧血」で3日の生命、と宣告されました。けなげに病魔と闘って、大学2年のとき亡くなりましたが、潤子が若かっただけに、私たちを苦しめ、悲しませました。
 医学的にはっきり解明されていない原爆症は、被爆者にとって、かたときも離れない不安です。
 それだけではありません。私は、助けを求めた隣のおばさんを置いて逃げ出した自分の行為に苦しみ続けました。戦争に巻きこまれ、貝のように口を閉ざしている、旧満州や中国からの引揚者、沖縄戦の体験者たちも、私のような悔恨をもちつづけ、誰にも話したくない、とその体験を秘めたものにしていると思います。でも私は、「戦争だったから、しようがなかった」とは口が裂けても言いたくありませんし、自分の内に押し込めて閉ざしておくこともできませんでした。
 『ヒロシマの朝、そして今』(山下会著・稲沢潤子編・あゆみ出版・1982年刊)に載せた私の3編の中の「土の中の目」(『あさ』9号へ書いたもの)を、石田忠先生は、『原爆と人間』(機関紙連合通信社・1983年刊)の本の中で紹介されました。
 隣のおばさんを助けられず、おばさんに手を合わせて「ごめんなさい」とにげ出した私、もうそのあとは、「恐怖」からのがれ、身を危険から守るために「無我夢中」で逃げた卑怯な私は、自分自身が「人非人」だったと良心の呵責-罪意識をもちつづけていました。
 そのことを石田忠先生は、めん密に分析されました。
 「その時の自分の行動を、「非情」とも、「卑怯」とも批判するのは、いま原田さんが、自分を〈人間の立場〉に置いているからだということにむなります。……あの時の自分は、もはや人間でなくなっていたと見ること自体が、いま原田さんの立場が〈人間の立場〉であることを語っています。原田さんにみる「良心の呵責」-罪意識-とはそのほかの何であり得るでしょうか。  しかし、そのときの行動は、原爆のつくり出した「地獄」が、恐怖の心理過程を通して、原田さんに強制したものであることも事実です。  このことを考えれば、あの「地獄」とは、人間にとっては、その中に置かれるならば人間でありつづけることができなくなるようなものであるとしなければならないことになります。〈人間の立場〉からすればそういわざるを得ません。それを証明しているのが原田さんの体験ではないでしょうか。」(『原爆と人間』40~41ページ)

 昨年3月、先生はご自身の分析が当たっているかどうかをたしかめるために、わざわざ横浜の自宅までお越しになりました。その時の先生の真剣なことばのひとつひとつが、私の古傷に突きささりました。
 今年の3月、私の最も尊敬している、岩手大学の高橋伊三郎先生から次のようなお手紙もいただきました。一部をご紹介してみます。
 「石田忠著『原爆と人間』の中で、原田さんのことがとり上げられていることを知りました。同じものを読みながら、私と石田先生との間に、こんなに読み方の浅い、深いの違いがあるのに驚くと同時に、原田さんの書かれたものが、おそらく同じ体験を心にもなくした人々の中で、書かれた、唯一のものではないかと私は思いました。痛ましい体験、これは満州でも、沖縄でもサイパンでも、戦争にまきこまれた一般市民の誰もが、原田さんと似た経験をもっていると思います。そして、それを書いた人は自分ではなく、見た人の記録が大部分だと思います。第三人称で、事実の報告をした人はあるけれども、原田さんのように、第一人称で書いた人はいない。ここに石田先生は大きく注目したのだと思いますし、又それだけに稀有の記録でもあると思います。」

 私は山下会に参加し、『あさ』に書いてきたことによって、このような立派な、大きな心の先生方との出会いにめぐまれました。勇気をもって、原爆の反人間的残虐さを伝えつづける被爆者としての使命をこれからも続けねばと思います。
 このごろ、私は病院通いがはじまって、とにかくあまり無理をしないようにして、やりたいことをやり、いやなことは避けて通るようになりました。そしていつでも、自分の身辺整理だけはしておこうと思っているのです。

  山下会の思い出
 学習グループ山下会の会員は、それぞれ個性のある、教養を身に付け、行動力のある人たちです。
 戦中戦後の混乱時代を乗り越えた、ヒロシマの母親ですから、少々のことで引き下がりません。たのもしい、感情豊かな母親グループです。
 私は広島から離れて、もう16年になります。離れていても、山下会員の活躍ぶりなど身近に知る機会もあり、時々は広島の会員の方々とも会っております。
 私のいた頃の山下会は、学習グループの手本みたいな会でした。週1回は確実に持たれ自分たちの選んだテキストで学習しておりました。勉強することを取り上げられた戦中派の私は、当時は育児、家事に1日中追いまくられるような生活をしていました。そんな私に、お友達の山下朝代さんは何かを感じたのでしょう、私を学習会に誘ってくれたのです。
 山下会の学習会は「余談」が多くて、よく脱線しました。チューターの先生は、静まるまで笑いながら、それを止めたりなさらずに母親たちの余談を聞いておられました。母親の1人が、
「先生、余談が勉強よ」などと云っておりました。
 この楽しかった学習会で、家庭のことと子育てのことについても、仲間とのふれあいの中で、私は学ぶことができました。物の見方や考え方をしっかりと持った母親になることの大切さを学びました。私にとって学習会は大きな支えでした。今でも私は感謝しております。これからも山下会の灯は消さないで下さい。私が帰広すると、一番先に山下会のたまり場に、身内に会うよりも前に飛んでいけるグループなのですから。
 昨年は娘の結婚、私の健康状態の変化などいちどに被爆にかかわる問題が、我が身にふりかかってきました。山下会の会員も、今迄にその人なりの被爆問題や被爆2世の結婚問題などの苦悩をかかえこんで、それを乗り越えようと努力して、生き抜いてこられました。これは今、私の身近にある、生きた教材となっております。
 娘も婿も私の生き方を理解してくれています。娘の結婚式には山下会の友人にも出席していただきました。婿の御両親は、私が広島で被爆していることもご存知なので、ひとまず安心いたしましたが、娘たちのこれからの永い生涯の間には、妊娠、出産などの人間の営みがあります。そうしたことへの被爆者としての、母親としての、被爆2世としての、またその夫としての不安や恐れはお互いに口にこそ出しませんが、やはりあります。それをさけては通れません。
 山下会と名前がついて、『あさ』創刊号から参加してきましたが、このたびの終刊の話に、20年間の私の歴史をふり返り、『あさ』はも離れがたい、自分の分身のようなものだったと思いました。『あさ』はここで永久に消えてしまうのではなく、また別の、新たなものになってどこかで再生すると思います。
 横浜と広島に離れていても、心のつながりはずっと続きます。皆さん、お互いに身体をいたわって、まだ歩き続けましょう。
(横浜在住)



山下会の灯を消さないで(完)

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