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若ものの側の論理 [「あさ」18号に寄せられた手記等]

若ものの側の論理
-ナイーブな平和教育論を-
松崎 徹

 「平和のために、何ができるかなんてきかれたって、あまりピンとこない。ニュースなどで平和活動をしているのをみるときがあるけど、それを一生懸命やったとしても核兵器がなくなるわけじゃないし、戦争はくると思う。平和運動もやらないよりやった方がいいのかしれないけど、私自身はそいう気がおこらないのはなぜだろう」
 これは私の授業のなかである女生徒が書いた文章である。現代の若者の内部の一端を見事に表現している。一報にはなんとはなしの破局への不安があるのだが、それと真正面から向き合うには、対象が遠く、ぼんやりかすんでいて、はっきりとらえられない。「あまりピンとこない」のである。そのような問題に、「なにができるか」といわれても困るのだ。まことに「私自身はそういう気がおこらないのはなぜだろう」である。
 ザ・デイアフターが封切られ、核戦争の実態がリアルに描かれても、核トマホークの危機をどんなに訴えられても、今日の次は明日があり、その次には明後日がやってくるのだ。なにも変りはしないのである。
 「障子の向うにヒロシマがある」という。だが「障子の向う」側を見ようとしないものには「向う」は見えない。「あまりピンとこない」若ものたちにどのようにして「障子の向うのヒロシマ」を見てもらうのか、15才から18才にかけての発達段階における平和教育の最大の課題がここにあるといえよう。
 現在若ものたちが平和問題のみならず自己をとりまくさまざまな社会的、政治的問題に対し主体的関心を持つには、彼らはのりこえるべき多くの障害をもっている。まず、「子どもの頃、『こうじゃないの、なぜこうなの』ときくと、『ごちゃごちゃいうな、こうといったらこうなのだ』とおさえられているうちに『なにをいっても無理だ』という結論を勝手にだしてしまっている。そんな自分になってしまっているのが情けない」と悲鳴をあげているこどもの側の論理がある。この延長線上に「なにをやってもだめ」と「なんにもできない」がある。さらにそのような若ものたちが多数を占めてくると、「ふつうの高校生はちょっとまともなことや、正しい意見をいう人がいると、ひやかしたり、のけものにしたりする。自分のそのうちのひとりかもしれない」となる。そして、「まじめに『平和』について考える高校生なんてほとんどない」状態になってしまう。
 若のもたちは、「自分の秘めた力」に気づき、無力感や絶望感から立ちなおろうとすると、「ひやかされたり、のけものにされる」危険をおかさねばならない。「参加したくても周囲の目が気になるし」である。そして、平和学習をつみ重ねていくと、自分をとりまく核戦争3分前の状況がつかめてはくるのだが、「毎日の生活にどっぷりつかっている人が私は嫌です。そして、これまでの私がそうであったことに対してすごく腹が立つのです。だが、誰もがそうなのでしょうが、頭ではわかっていても実際行うには困難が山積しています」と、認識と行動のギャップに悩むことになる。
 私たちおとなの側は、このように苦しんでいる若ものたちにもっとていねいにつきあっていく必要があるのではないだろうか。いまの社会はかっての軍国主義下の日本における厳しさはない。ありあまるもののなかで生きる目標をみいだし得ない多くの若ものたちに、ただ「甘えるな」といっていればよいというものではないだろう。この若ものたちの「どう生きるか」の問いかけにきちんと答えられるおとなが何人いるだうか。
(注・文中の「 」は、平和教育のなかで生徒が書いた感想文である。)

トビウオのぼうやはびょうきです [絵本・書籍]

昨日久々本屋に立ち寄りました。
「トビウオのぼうやはびょうきです」という本を見つけました。
平和や原爆のことなどを考える絵本です。

昔私がまだ小学生だった頃、夏休みの冊子がありました。
国語や算数の問題だけではなく、間にお話もあります。
この日にはこのページをやりなさい、と決まっていたような気もします。
その宿題の中に、トビウオのお話が載っていたのを覚えています。
詳細は、かれこれ…30年以上昔のことで覚えていませんが
トビウオのお母さんと子どものお話でした。
印象強く覚えているのは、夏なのに空から白い雪のようなものが降ってきて
トビウオの子どもは嬉しくて海面に飛び出し喜んだこと、
その後黒い雨も降ったんだっけ?そこは自信がないです、
トビウオの子どもは、だんだん体調が悪くなり、元気がなくなっていく、
そんなことまでしか覚えていないのですが、
ちらっと本屋で手にとって、このお話だったのかな?
と気になっています。

昔のいろんな事を詳細に覚えている友人がいるので
覚えていないか確認してみたいのですが、覚えているかしら?
お兄ちゃんに読ませてみたいですが
最近時折「死」というものを分からないなりに考えているようで、
タイミングを見計らってでないと、と思います。

お待ちいただけます?

「あさ18号」に寄せられた原稿があと3つ残っています。
今までよりも短い物、同じくらいの物、それよりも倍近い物。
あとは終刊にあたり寄せられたメッセージ。

原稿は載せるとして、メッセージを載せてもいいのかな?
悩むところですが、この冊子をくれた叔母に相談すべきか…
他に手元にある「あさ」を譲ってもらえるかどうかも聞いてみたいのですが。


先月叔父が体調不良を訴え、緊急入院をし手術をうけたようです。
術後の経過を見ながら、まだ退院できないようです。
退院しても長期療養が必要なようで、そんな大変な時に
叔母に相談すべき事かと思うと気がひけます。

お兄ちゃんのPTA活動などで少し忙しくなるので
これまで以上にお待たせすることもあるかもしれません。
少しずつでも進むと自己満足になるかもしれませんが、達成感もあります。
ぼちぼちと進めていけるよう、微力ですが頑張ります。

まずは短めのものから取り掛かり
ある程度まとまって入力が出来たら
このブログにアップしていきたいと思います。
時々のぞきに来て下さいね。

焼跡から生きぬいてきた私 其の3(完) [焼跡から生きぬいてきた私]

 8月15日朝早く起きて山県郡都々見という所まで行くことにしました。そこへ私の友達が疎開していたのです。私の着物なども一緒に疎開させてもらっていたのです。乗りものがないので歩いて山越えをしていきました。途中ぞうりのはなをが切れたので、農家に入り「はき古しのぞうりがあったら下さいませんか」とたのんで見たのですがだまって話もきかずに中に入ってしまわれた。田舎人はなんと薄情だな、と思いながら暑い日中を手拭いを水でぬらしては長い道をとぼとぼと行きました。都々見に着いた時はもう夕方でした。家の外から声をかけると、子供2人が出てきて私を見るなり家の中へかけ込みました。
 友達が出てきて私を見るなり「まあ」とたまげてなんにも言わずに私を見ていました。そして「あがって下さい」と言われたのですが、私の足は痛うとあげられず這うてあがりました。
 いろいろ話をすると「生きていてよかった」とよろこんでくださいました。
 ごはんをよばれてから、風呂をすすめてくださるのですが、私は自分の足がどうにもならず「少し休んでから」と言ったのですが、友達は「つかれがとれるから」とすすめて下さるのです。風呂場へいったものの湯船に入れないので、しかたなくたらいに湯を入れてもらいました。その時鏡を見て、私はわれながらに恐ろしい顔だったのに驚きました。今日ぞうりをお願いした時にげられたこと、子供が恐れて家の中に入っていったわけがわかりました。その晩友達から「今日、日本は戦争に負けたのよ。もう終わったの」と聞かされて戦争が終わったことを初めて知ったようなことでした。なんだか大きな荷物をおろした様な気がしました。翌日私はすぐ家に帰ることにしました。安古市(やすふるいち)までトラックに荷物と一緒にのせてもらうことが出来ました。
 8月16日
 中広町の土手下の川原へたくさん朝鮮人が集まって夜おそくまで酒を飲み「日本負けた」と言って夜おそくまで歌をうたい太鼓をたたいて時折かん高い声で叫ぶので、とっても恐ろしく思いました。
 その夜は身の危険を感じて赤ん坊を抱き3人の子供を膝に寄せて恐怖で一睡もできませんでした。夜明けを迎えて初めてほっとしました。恐ろしいと私の思った一夜が、今思えば朝鮮の人にはよろこびの日でした。
 長い間自由をうばわれ、人間らしいあつかいもされず、その苦しみは生き地獄のような苦しみであったと思います。日本が負けて初めて朝鮮の人は夜明けをむかえたのです。
 それから1週間位たって食品組合から、配給員の呼び出しがあったのです。いろいろと事情をはなしましたので、私は一番らくな所にまわしてもらいました。
 毎日千田町文理大(現在の広大北門)まで通いました。私は市内配給の数を見るだけでした。仕事は3時まで、日当のかわりに毎日品物をもらうのです。カンヅメ、サトウ、タクワンをもらって子供のまっている家へと急ぎました。米の配給はありません。大豆、トウモロコシ、サトウ、時折メリケン粉がありました。それが米のかわりです。

 弟が朝鮮から復員して来ました。末の弟も帰って来ました。姉と妹の主人も復員しそれぞれ帰って行きました。私達は親子5人で実家のとなりの空地に住むことにしました。毎日たくさんの人が復員されます。市民に配給する品物も少なくなりました。私が持って帰るだけでは生活がしにくくなりましたので、自分で商売をすることを考えました。その頃天満橋の川土手にぽつぽつ店が出始めたのです。人通りも多いので、私もここで商売をすることにしました。ムシロ一枚しいて野菜を少し列べて座ったもののはずかしいので、手拭をふかくかむって座っていました。夕方までに野菜は皆な売れました。ムシロをこわきにかかえて帰りました。今日のもうけは2円50銭でした。うれしくって、私はあす売る品物をさがしに行き、家に帰ったのは8時頃でした。帰りに朝鮮あめを買って帰りました。親ゆび位のが1銭でした。子供が皆おきて私の帰りをまっていました。
 3日位は手拭いをふかくかむっていましたが、こんなことではと思って少しあさくかむってすわっていますと時折知った人が声をかけて下さり、品物も買ってもらいました。毎日きまって買いに来て下さる人も出来ました。主人の友達が品物を持って来て下さるので、これでまたもうけさしてもらいました。今迄見たこともない様な品物が露天に出てくるようになりました。おそくまで商売をしていますと、やくざ風の人がいんねんをつけたりしますので私は夕方早めに帰るようにしていました。
 秋風が吹き始めました。4人の子供がうずくまってねている姿を見ては、主人に「どうぞ生きていて下さい」と祈る気持でした。
 昭和21年2月に入って、爆風で倒れた家を5円で買いました。朝早く起きて整理に行き、夕方農家で大八車を借りてはこぶのです。子供はこわれていないカワラを集めておくのです。私は近所の大工さんにたのんだ所1週間位で家が出来ました。電気もひきました。ムシロも敷きました。我が家も時々笑い声がするようになりました。
 毎日復員する人で貨物列車は黒山の人でした。中支より復員された人に聞きますと「もうほとんど帰ったでしょう」と言われるのです。
 21年4月、次男が三篠小学校へ入学しました。わらぞうりをはき、袋をさげて行きました。1年生は全部で20人足らずだったと思います。一目でもよいから、主人に子供の元気な姿を見せてあげたいと思いました。
 22年6月よく晴れた日でした。私はいつものように大八車をひいて商売に出ました。
 吉本のおじさんが「お父さんが帰ってこられたから、すぐ来て下さい」と云うてこられました。「くわしいことはよくわからないので早く十日市に行って見なさい」とのことでした。私はおじさんに店をたのんで十日市にいる義母のところへいそぎました。私は道々人目もかまわず泣きながら走りました。無事な主人の顔を見るまでは心配でした。中広の家に帰り、子供を連れて義母のいる十日市に行きました。お互いに顔を見ても言葉も出ず、涙がほほをつたうだけでした。主人は、栄養失調で担架で送り帰されていたのです。
「今日病院から初めてここまで来た」
と言いました。
 私達親子5人無事でいることを知り安心したのです。骨と皮になり見るかげもない主人でしたが、とにかく生きて帰ってくれたことが私は嬉しかった。
 4人の子供が「あれはだれね」ときくのです。「お父ちゃんよ」と言うとじっとみていましたが長男だけが小さな声で「お父ちゃん」と言ってくれました。しばらくして次男が「お父ちゃん」と言ってくれました。三男はじっと見ていました。しばらくして思い出したのでしょうか、小さな声で「お父ちゃん」と言いました。四男は私にしがみついて見ようともしません。三人が近寄って、あたまをなぜてもらいました。
 それからは家での看護が大変でした。栄養失調は一度に多く食べさすと死ぬると、きかされました。食べたがるのを少ししか食べさせてくれないので主人は怒るのです。でもがまんして早くよくなってもらいたい思いで、なんぼう怒られても私はがまんしました。
 妹が「米はどうしているか」と心配して来てくれ、5合ばかし持って来てくれました。「着物を出せば米でも麦でもかえてもらえるのよ」と言います。私は着物1枚出して、「米とかえてきて」とたのみました。
 商売もあまり休むわけにも行かないのでまた出ました。8月畠の中でヤミの野菜を仕入れていたら警察につかまって西警察に連れて行かれ、夕方まで取り調べをうけました。どんなに話してもゆるしてくれませんでした。「主人が戦地から栄養失調で6月に復員してまだ休んでいます。子供が4人いますし食べていかなければなりませんので、悪いとは思いましたが買いに行きました。どうか今日の所はこらえて下さい。もう買いに行きません」と言いました。となりに座っておられた50才位の人が「気の毒に、今日は返してあげたら」と警察の人にとりなしてくれました。でも、すぐには帰してくれません。私は家のことが気になるし、おどおどするばかりで何を云われても、もう耳に入りませんでした。夕方おそくやっと帰してもらいました。
 家に帰っても取り調べをした男の顔が目の前にうかんで、おそろしくてたまりませんでした。人が戸をあけて顔を出すとその男の顔に見えました。それから2ヶ月位して検察庁から呼び出しが来ました。私はよばれたので中に入ると、調書を読んでおられました。「あなたは気の毒に、ご主人をだいじにして上げなさい」と言われたので、私はびっくりしました。「あなたも子供さんが多いから大変ですね。早く帰って上げなさい」と言われたので、私はうれしくて、「ありがとうございます」と言って外に出ました。身も心も晴々してまるで雲の上にでものっているような心地でした。
 私が帰ると、主人もよろこんでくれました。当時はヤミをしないと生活が出来なかったのです。それからも、少しずつでも仕入れては売りました。時々私はまた着物を売って金にしました。
 主人は大分元気になりました。ぽつぽつと十日市の焼跡のせいりに子供を連れて通うようになりました。そのうち家が建ちそこで商売も出来るようになりました。少しまとまったお金を作るために残しておいた着物、帯を風呂敷につつんで、大芝の姉の所に行く途中橋の上で、これが私の着物の最後だと思うと涙が出てとまりませんでした。
 姉の所でたのむと気持ちよくひきうけてくれました。近所の朝鮮の人が値をよく買って下さったのです。母にも貸してもらい、なんとか十日市に店を出すことができました。

 四男がお父さんをきらって、私に
「おじさんいつ帰ってんね(帰られるの)」と言うのです。むりもない生まれて2ヶ月で別れていたのですから、顔など知るわけがない、私は四男がふびんでだきしめてやりました。主人もあまりかわいがりませんでした。子供に、
「敏ちゃんのお父ちゃんなのよ」
と言っても、四男は
「お父ちゃんないよ」
と父親であることを信じません。
 こうした親と子の心のかよいあわない生活でした。こんなことにも私はつらい思いをあじわいました。

 戦争や原爆によって私のような思いをした人は、たくさんおられたと思います。
 今からの人には、私達の体験と苦しみをくり返してはならないと心から願っています。
 平和な人間らしい生活ができるように、私は年をとりましたが、皆さんと一緒にがんばります。

焼跡から生きぬいてきた私  完

焼跡から生きぬいてきた私 其の2 [焼跡から生きぬいてきた私]

 昭和20年8月6日の朝です。よく晴れていました。朝5時に起きて朝の仕度をはじめると妹が起きてきました。米が3合ありましたのでおかゆにたくのです。出来たら水を入れ、また水を足しながら煮るのです。前の日に子供を連れて取って来た野草を小さくきざみ量をふやすのです。当時は塩がないので梅じそを小さくきざみそれをつけて食べました。
 私はリヤカーを出し箱を積み、配給を取りに行く日でしたので、仕たくをすませて家に入ると警戒警報が解除になったのです。私は主人の厚司で上衣とモンペをぬっていました。ぶ厚い布なので少々のことでやぶれるような布ではありません。上衣を2枚、モンペ2枚足袋をはき地下足袋をはいていました。汗が流れるので頭を手拭でくくり、その上から綿入れの防空頭巾をかぶり、手袋をしていました。リヤカーのついた自転車に乗って当時、広島県立第2中学校、現在の観音小学校のところにさしかかりました。そこには大きなポプラの木が並び道路に面した所だけ家がありました。裏の方は皆畠でした。其の時ゴオーというものすごい大きな音がしたので、ふりむくと、まるでうす茶色の山のようなものがおおいかぶさって来ましたので、すぐ前にむきましたが、そのまま私はどうなったのかわかりません。気がついた時はもう夕方でした。
 福島川の観音町よりの土手に、かきがらがたくさん積んでありました。私はそこにいました。起きようとして顔に手をあてると、右のほほがこんにゃくのような感じで腫れあがっているのです。目じりも少し切れていました。左の手のひじも切れていました。だれかが手拭で腕をしばってくれていました。まわりの人もみんなばけものの様でした。片袖がなくなっていました。太陽が西の山に沈みかけていました。
 私はほほを両手でおさえて立ちました。
 私は夢遊病者のように歩きはじめました。早く家に帰りたいと思い福島川に下りました。川砂の上の人は皆んなふさったり、あおむけになったりしておられました。その時川原でねている子供を見て自分にかえりました。どのようにして家までたどりついたのかおぼえていません。日が暮れても帰ってこないので母や妹が心配したそうです。
 私が家の前まで帰った時、近所の人が妹にしらせて下さったのですが、一寸見てちがうようなので帰りかけて、もう一どよく見ると厚司布なので私だということがわかりました。妹はすぐ私を連れて畠の中にねかしました。
 実家はもう焼け落ちていました。井戸水で妹は顔を冷やしてくれたそうです。子供はおそれて私のそばにはよりつかなかったと言っていました。
 住むところもないので畑の中で三日三晩野宿をしました。5日目、母が「どうでも玖村の方へ向いて逃げよう」と言うのです。
 子供をつれて歩いていたものの、道はなし、橋はなし、泣く子の手をひいて玖村にやっと着きました。たよっていった先はお寺で親戚でした。他の家族もおられるし、こちらは子供がたくさんいるので、気がねでした。
 戸河内へ疎開していた姉が米2升持ってきてくれました。
 その日四男が血便を出したので、私はおどろきました。四男は初めは泣いていましたがしだいに静かになって眠るばかりです。私は夕方太田川のほとりに連れていきました。
 この子はもうだめなのだろうか、なんとか生きていてほしい「もしもこの子が死んだらせめて私の手で焼いて葬ってやりたい」と泣きながら川のほとりを半気違いのように暗くなるまで歩いていました。泣く泣くお寺に帰る道で、近所の人に出合いました。その家の子供さんが死なれて、いらなくなった注射を私に下さるというので、その人の家についていきました。そこの男の人が四男に注射をして下さいました。
 血便はまだ出ていましたが、朝になってみると目をあけてキョロキョロしています。「助かった」と思い私はうれしくて何かお礼を、と思いましたがなんにもないので口のお礼だけでもと思い、子供を抱いてお礼にいきました。「こんなにいいのなら」と言って1本のこっていた注射をまた打って下さいました。
 それから近所の人が「市外に出ている人は早く広島市内に帰らないと配給がもらえなくなります。」と言ってこられたので一晩泊まっただけで又母と妹と子供を連れて中広へ帰って来ました。住むところもないし焼野原です。風呂場に焼のこりの柱をさしかけて焼トタンを上において寝る所を作りました。その晩大風が吹いて朝明るくなって見ると、トタンが風にとばされてなくなっていました。子供を起こして、「早く拾い集めないと人に拾っていかれる」と言って集めさせました。


其の3(完)に続く

焼跡から生きぬいてきた私 其の1 [焼跡から生きぬいてきた私]

焼跡から生きぬいてきた私
隆杉 京子  68才(昭和59年当時)

 昭和19年5月13日主人に召集令状が来ました。5月20日5師団師令部第2部隊3中隊に入隊しました。近所の浅井さんが5師団に勤めておられたのです。4日目の夜あす面会が出来ますとしらせて下さいました。
 主人のすきな物をくめんして行きました。門を入ると浅井さんが出てこられて親子6人に1室をあたえてもらい、楽しい時間を過ごすことが出来ました。
 入隊から6日目の朝、浅井さんがよられて
「今晩たたれるから、夕方早めに出て行ってみなさい」
と言われました。夕方早めに、だれにも言わずに義母と子供を連れて西練兵場についた時にはもう兵隊さんは2部隊の門の所を出発しておられるのです。
 西練兵場はぬかるみでした。いそいで行かないと会えないので、どろの中もかわまずに皆な先をいそいで行きました。私達親子は門の見える所で見ていました。服装が同じなのでわかりませんでした。当時東練兵場に軍隊の専用列車がひきこんでありました。私達は東練兵場に行き日が暮れるのをまっていました。暗闇の中を汽車が静かに出て来ました。今夜が最後の別れになるかもしれん。そんな気持ちでした。
 汽車は西へ西へと長い列を作って走りました。涙がとまらず声を出して泣きました。
 四男はよくねむっていました。子供の手をひいて帰りました。義母とは話すこともなく帰りました。11月に入って義母はどうしたのか、私にはなにも言わずに家を出て行きました。
 私は小さい子供4人連れて配給所の下請けの仕事をやらなければなりません。母が今日は帰るか、と毎日待っていました。とうとう帰って来ませんでした。隣のおばさんがみかねて三男を見て下さいました。長男次男はどうしても配給を取りに行く時はいつもついて来ました。行く時は箱の中に乗せて、帰る時はリヤカーをおしてくれます。四男はおんぶして手をかけてやることが出来ないので、とうとう、わきの下がちぎれて赤身が出ているのです。
 私は石川のおばさんに話しました。見てあげるからと言って下さるので、四男をたのんでは配給に出ることが出来ました。おじさんもおばさんも孫のようにかわいがって下さいました。
 12月に軍事郵便のハガキが一枚来ました。「ご奉公している。子供をたのむ。皆な体を大切に」と簡単なものでした。私はうれしかった。それきり一度も頼りは来ませんでした。
 昭和20年
 春といってもまだ寒い朝のことでした。私の家の前が家屋疎開にかかりました。毎日年取った兵隊さんが家をこわしにこられました。次から次へと家がなくなりました。大火を防ぐためと言われていました。
 警戒警報がこれまで以上にひんぱんになりました。近所の人が「子供が小さいから一度中広の実家へ帰っては」と話して下さったのです。
 当時は毎日配給もありませんでした。ある時だけきて配給すればよいからと言われるので、5月に入って中広の実家に帰りました。川一つへだてた所ですが、まわりは広い畠で家はまばらでした。妹も「度々帰っておいでよ」と言ってくれましたが、配給が心配で帰られなかったのです。妹の主人はマニラ、実家の兄はニューギニヤ、弟は朝鮮に出征していました。実家の母が1人でいたところへ、私たち親子5人、妹も子供2人を連れて帰りましたので、生活は日増しに苦しくなりました。米の配給もなかなかありませんでした。
 子供は毎日元気で遊んでいました。妹が裏の川や山に連れて行き食べられるものを取って来ていました。
 私がとうふやオカラをもらって帰り、梅じそを小さくきざみ、まぜて代用食にしていました。オカラも配給になり毎日もらえなくなりました。


其の2に続く

やっと再開です

8月28日、待ちに待った二学期がはじまりました。

夏休み中はなかなか自分のしたいことが思うほどできず
かなりイライラ、ストレスをためていました。

今、時間を見て、ちょっとずつ入力再開です。
夏休み中に出来ていない事もやりつつ、なので
ぼちぼちアップしていこうと思います。

しばらくお待ち下さい

あと4日…
お兄ちゃん(小学2年)の学校が始まれば
ゆっくりパソコンに向かう時間がとれる、はず。
構って欲しくて、何かすればまとわりついてきます。

「漢字ドリルやっていなさい」と言いつけて洗濯物を干していても
開始3分で「お母さん、今『北』って綺麗に書けたんだけど
大きすぎてだめだぁ~」と報告に来てそこで中断、
こんなかんじで先に進まないので朝っぱらから大声で叱責。
嗚呼、今朝も何軒先までこの怒鳴り声は響いているんだろう…

次の原稿はワードで少しずつ入力しています。
ひとまとまりブログに載せられる量を入力したらアップを、
そう思っているのですが、2学期開始の来週からかな?

原爆後の私  其の2 (完) [原爆後の私]

 軍需景気の波に乗って町工場から全国でも六大模範軍需工場にまでのし上がった私たちの会社でしたが、原爆投下と同時に機械は停止し、命のある人たちは散ってしまい、診療所に運ばれてきた動けない人たちだけが残ってしまいました。そのたくさんの人たちを看護婦さんが一人でてんてこまいをして看ておられましたので、みかねた私たち4、5人が手伝うことになったのです。なれないことばかりでしたが一生懸命しました。それでも毎日、なん人かが亡くなっていかれます。間で1回だけ2、3人連れで医者が見廻りに来ました。その後でも、手当は赤チンをぬり、アスピリンを飲ますことに変わりありませんでした。その内8月も終わりごろだったと思います。わたしは体調をくずし何日も熱が下らず、ノドと歯ぐきから出血するようになりました。丁度その頃、舟入川口町に叔母がトタン屋根のバラックを建てて住むようになりました。私はそこで寝ついたまま1ヶ月あまりも床から起き上がることが出来ませんでした。「ここまで頑張ったのに、やっぱりわたしも死ぬんかなぁー」と熱のある頭でぼんやりと、わたしの腕の中で亡くなった何人かの人のことや、田舎で寝たままでいるという父のことを考えて1人泣いておりました。
 その後、元気になり、結婚、2人の男児出産と、普通の人と同じ道を歩いていたつもりの私が、35年の3月、近所の病院から、ABCC、広大病院とたらい廻しされたあげく、
「大したことはないと思いますが、早いとこ悪いとこは、取っといた方が良いですよ。」
 と、いとも簡単そうに言われ、手術に踏み切りました。その結果、摘出したものが「癌」だと分かったときは目の前が真っ暗になりました。二次放射能のガスを吸った者が私のような「甲状腺癌」になりやすいとも言われました。そのとき、長男12才、二男6才でした。二男は今年から小学一年生になると張り切っておりました。わたしはこの子供たちを残して死んでなるものか、と思う一方、あのとき苦しんで死んでいった多くの人達が毎夜夢に出てきます。あんな苦しみをしなければ死ねないという恐怖で、とうとうノイローゼのようになりました。
 こんなおもいをしながら、今までに3回、同じ手術を繰り返しております。でもわたしがこうなったのは、自分の不注意でも、また生まれつき病弱だったということでもありません。ヒロシマに原爆が落され、その瓦礫の上を歩きまわり、火傷をしている人たちを抱いてあげたり、御飯を食べさせてあげたり、しもの世話をしてあげたためです。その二次放射能を受けたため39年たった今でも、わたしの苦しみが続いているのです。だからこれは決して私の責任ではなく、戦争をした国の責任ではないでしょうか。それなのに私は今まで国から何の弁償も、謝罪も受けていません。原爆手帳は持って居ても、病院に行くと社会保険優先と言われ一度も使用する機会がないまま、タンスの引出の奥でねむっております。健康管理手当も受けておりません。(入院や手術をする場合、原爆手帳の方が良い薬が使えたり、色々有利だと聞いていますが)
 このような苦しみを通ってきたわたしたちが、今黙っていたら、わたしたちの親や、わたしたちが過ちをおかした道を、今の若いお父さんたちがまた通るのではないでしょうか。
 わたしは長男夫婦と同居しております。2人とも被爆二世です。孫が長女7才、長男6才、2人とも腕白ざかりで、毎日が嵐のようににぎやかです。特に長女は幼稚園に通うようになってからは、これという病気もせず、幼稚園最後の1年間は皆勤賞をもらって大変なよろこびようでした。その子が3月になって風邪を引き、熱が2、3日おきに40度近くも出ます。そして吐いたりお腹が痛いといっては泣きます。そんな状態が1ヶ月あまりも続きました。たまりかねてある日、
「百合子さん、お医者を替えてみたらどうかね」
と嫁に言ってみました。翌日、かねて評判の良いと聞いていた小児科に出掛けた嫁がお昼過ぎに帰ってきました。
「風邪がこじれたんだろうと云われました。血液検査をしてくださったのでおそくなりました。佳子ちゃんの白血球、普通の人の3倍に増えているそうです」
そして少し間をおいてから
「お義母さん、白血球が増えるってどういうことでしょうね」
と小さな声で聞きました。私もそれを聞きながら気になっていたことだけに答えようがなく、
「さぁねぇ、大したことはないんでしょ。佳子ちゃんの体が弱っているからね。」
と言いましたが、やはり彼女は不安そうな顔色をしておりました。わたしは自分の部屋で1人になると、体中の力が抜け、ペッタリそこへ座り込んでしまいました。今まで何度こんなおもいをくり返したでしょう。
 長男は小さいとき、すぐに熱を出す子でした。ぐったりした子を背に負っていき記念病院へ入院もしました。二男はしょっちゅう鼻血が抜け、そのたびに大騒動したものです。手と足を3度も骨折しました。どうしてうちの子だけこんなに弱いのだろうと思いました。そしてわたしが被爆者であることと思いあわせ、不安になります。熱の高い子を抱いたまま、一睡も出来ない夜などは、そのおもいとのたたかいでした。
 わたしが苦しんだあの時のくるしみを、被爆二世である嫁が、今味わっているのだと思うと、たまりませんでした。翌日、山下会に出掛け、孫の病気のことを話しながらわたしはとうとう泣き出してしまいました。昨日から、特に嫁の前では明るくふるまっていたのが、皆の顔をみて我慢できなくなってしまったのです。
 そののち、人から盲腸でも、肺炎でも白血球は増加すると聞き安心しました。孫もこんどのお医者が良かったのか、日に日に元気を取りもどし、4月には無事小学校へ入学することができました。痩せっぽちの佳子ちゃんには、新しいカバンが大きすぎ、
「カバンが歩いているようだね」
と近所の人たちにからかわれたりしています。一般の人から見たら、「ただの風邪くらいで大げさに」と言われるようなことでも、今までこんなにくるしんで来ました。原爆にあっていなかったらこんな思いはしません。あのときの体験が体にしみついております。まして、放射能の影響だといわれるわたしの病気が、子供にまで続くのか?といつも心を痛めながら今日まで生きてきました。また私のこの心配している事が子供に知られるのが恐ろしくて、今まで一度も口にしたことはありません。
 忘れもしません。初孫が生まれたのが、昭和52年5月21日未明でした。薄ぐらい産院の廊下で、かたい椅子に嫁のお母さんと私は不安をかくしながら何時間もだまって待ちました。2人とも被爆しております。普通の人にでも我が子の出産は不安なものでしょう。でも、今のわたしたちにはもっと大きな不安が重なっています。
 それはそれは、苦痛な数時間でした。わたしはとうとうたまりかねて、
「満ち潮を見てきます」
と産院を飛び出し、一気に川土手まで走りました。少し明るくなりかけた空に向かって、
「お父さん、助けて!」
とわたしは手を合わせました。そうしたら少し気が楽になったのを覚えています。
 以前の原爆病院長、重藤先生が、「被爆二世の問題はいまだに解決していない。しかし影響はないから安心せよ、とうそをいってすませる問題ではない」と書いておられました、また今年の6月1日、中国新聞にABCC(放射線影響研究所)が
「被爆二世追跡研究の将来構想図固まる(当時からの被爆者寿命調査に加え)今後は遺伝研究や被爆線量の見直しなどに力点を置く案を固めた」
この記事を読み、やはり私たちがいつも懸念している遺伝の研究が必要なことを再確認しました。それから数日後、NHKの朝のテレビニュースで
「被爆した人から抜いた歯で、ヒバク線量測定に成功した。距離数もわかります」
と言っているのをきいて、そんなことも今まで調べられていなかったのかと腹立たしくおもいました。
 戦後40年近くたった現在でも、こんなおもいをしているのが被爆者です。子育てにいそがしい若いパパやママに私たちの二の舞をしないよう、現実をしっかり見つめる勇気と努力をしてほしいと、いつもねがっております。
(1984.6.28)

※漢字表記等、一部読みやすいように修正させていただいております。

原爆後の私  其の1 [原爆後の私]

終戦の日が近づいていますね。
(メインブログ「ゆうきリンリン…」で'12.8.12に投稿)
山下会誌 「あさ 18号」には沢山の原稿や
読まれた方々からのお手紙が、120ページ近く記載されています。
ここで紹介するのも、草の根運動になるのかしら?
まだ『傷あと』しかご紹介できていないので
できる範囲で頑張ってみようと思います。



原爆後のわたし
橋本 幸子 58才(昭和59年時点)

 「あっ、おとうちゃん、げんばくドームだ、にっぽんとアメリカがせんそうして、アメリカがゲンバクをおとしたんよ。おとうちゃん、しっとる?」
 6歳の孫が大きな声で車の運転をしている父親に話しかけました。不機嫌そうに押しだまったままの息子の顔を見て私は首をすくめました。あれは去年でしたか、電車で相生橋にさしかかったとき、当時、5歳と6歳になる孫が原爆ドームを指さして、
「あれはなに、どうしたん、おばあちゃん、おしえて」
と聞きました。まだ小さい子供だからとおもったのですが戦争でアメリカが原爆をおとし日本が負けたことをおしえました。それからというものは相生橋を通るたびに、
 「原爆ドームだ」
 「原爆ドームだ」
と大きな声で叫びます。そのあとで必ず、
「アメリカが落としたんよね。」
とわたしの顔をみて言います。バスに乗っていようと電車に乗っていようと必ず大きな声で言います。今ごろはそのあと、いろいろの質問がとんできます。
 「どうしてにっぽんはアメリカとせんそうしたん?」
 「どうしてにっぽんはまけたん?」
 「ゲンバクがおちて、ヒロシマはどうなったん?」
 「どうしておばあちゃん、しななんだんね。」
 「やけるまえのヒロシマは、どうようなかったん?」
 「このへんにこどもはおったん?」
 「わたしんちもやけたん?」
2人が競争して「どうして」「どうして」の連発で際限がありません。先日、やはり電車のなかで
 「ゲンバクってどんなかたちをしとったん?」
 「どのくらいのおもさなの。」
 「え、おしえて」
意地わるく大きな声でわたしにせまります。座席の人たちの目が一斉にわたしに集まりました。曖昧なことはいえず、
 「おばあちゃんも、わからないからこんどしらべとくね」
この様に勉強不足のわたしを困らせる孫たちですが、わたしの一言で戦争のことに関心をもってくれたことがうれしく、この子たちがわかるような原爆のおはなしの本が目につくと買ってきます。そして2、3日後、
 「このあいだ、おばあちゃんが買ってあげた本、よんだ」
と子供に聞きますと、
 「おとうちゃん、あの本、きらいだって、よんでくれないの」
不足そうにわたしに告げます。
 「じぶんでよんだら。よしこちゃんだったらよめるよ。1ねんせいだものね」
それから2、3日して
 「おばあちゃんがかってくれた『ルミちゃんの赤いリボン』よんだよ。よしこはリボンが頭につけられるからいいね。おじさんもいなくなられたってどういうこと」
 とききます。よしこはとてもリボンが好きで、いつも頭にリボンをつけています。
ルミちゃんが、おじさんと一緒に、8月6日に広島へ出かけたまま帰らないお母さんをさがしに行っただけなのに、原爆症で髪が抜けてしまい、お母さんに作ってもらったリボンが頭につけられなくなったことが特にかわいそうだったようです。また、おじさんがなくなられたと書かれている意味が解せなかったようです。
 それにしても、私は親でも無いのに、また出過ぎたことをしてしまって、と複雑な気持ちになり自分のしたことを後悔します。でも少し気分が落着くと、私は自分自身が被爆者であるということに思い当たります。「戦後39年もたつのに」とよく言われますけれど、原爆にあったわたしたちの苦しみはいまだに続いております。39年たっても少しも苦しみが少なくなったと感じた日はありません。あの太平洋戦争が実は日本軍の侵略戦争であったと今更教わっても、すぐには信じることが出来ませんでした。国を信じて私たちはいろいろな困難に耐えました。毎日、「バンザイ」「バンザイ」と死出の旅に立つ兵士を見送りました。特にわたしたち若い女性の見送りが兵隊さんの励ましになるからと、遠方の家まで出掛けたものです。他方では色々と、悲劇が生まれていることも無視して…
 またわたしの勤めていた軍需工場でもお上からの命令で毎日、兵器の増産にと追いたてられ、歯を食いしばってガンバリました。配給がすくなくいつも空腹をがまんして働きました。わたしたちが空腹を我慢した分だけ外地に行っている兵隊さんが少しでも助かると、不平も言わないでただお国のため励まし合いました。「欲しがりません勝つまでは」を合い言葉に。また、戦争末期には広島も空襲警報が頻繁に発令されるようになりました。でもなぜか広島は素通りです。その度に
 「広島は良いところじゃね、敵さんも広島には七つの川があるけぇ爆弾を落としても効果の無いことを知っとるんよね」
と言い合っておりました。
 ところが昭和20年8月6日、たった一発の原子爆弾で広島は壊滅してしまったのです。炸裂した爆弾は20万人もの人々を殺しました。その人たちのなかには日ごろ、わたしたちが自慢していた川に助けを求めたため死んだ人も多くいます。また親戚や知人を捜すためヒロシマに入り、残留放射能におかされ、亡くなった人達もたくさん出ました。
 私は7日の朝、早く地御前の勤務先を出て、舟入の自宅(爆心地から2.2キロメートル)にむかいました。昨日の朝出勤したときの様子は全くありませんでした。昨日の朝は父が一人家に居た筈です。どこがどうだかわからないような瓦礫の中をとにかく父を探して歩きまわりました。夕方近くなって、江波小学校にねかされていた父を見つけることが出来ました。体中にガラスの破片が突きささり、目も鼻も口も血のりでコチコチになり、男女の区別も付かない状態でした。父のほうから私の名を呼んだから分かったのです。目が見えないから、人影や足おとがするたびに私の名を呼んでいたと言います。あのとき、地の底の方から呻くように「幸子じゃないか」といった弱々しい父の声を思い出すといまでも涙がにじみます。
 その夜は学校の廊下の板の間で一睡もしませんでした。教室の中もまわりの廊下も沢山の人達が座ったり寝ころんだりして居ました。
 その人たちの泣き声と呻き声の入りまじった、今おもいだしてもぞーっとする様な一夜でした。だんだんと夜が明けるに従って、まわりも静かになったと思い、あたりをみまわし、びっくりしました。先程まで「水を呉れー」とか「痛いよー」と云っていた人たちが殆ど死んでいるのです。父が、「水が飲みたい」と云うので死んでいる人たちをまたいで行きかけましたが、水飲み場には何人もの折り重なった死体があるので引き返しました。
 私はこうしていては父も死んでしまうとおもい、勤め先の地御前に連れて行こうとひき返しました。そして会社の車でむかえに行ったら、父の姿はありません。伝言板に「父をつれて帰る。幸子も田舎へ帰れ。」と書いてありました。母の兄が瀬野からきてくれたのです。しかし私は、会社の診療所でみた沢山の怪我をした人や、病人をみすてては、田舎に帰れませんでした。

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