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若ものの側の論理 [「あさ」18号に寄せられた手記等]

若ものの側の論理
-ナイーブな平和教育論を-
松崎 徹

 「平和のために、何ができるかなんてきかれたって、あまりピンとこない。ニュースなどで平和活動をしているのをみるときがあるけど、それを一生懸命やったとしても核兵器がなくなるわけじゃないし、戦争はくると思う。平和運動もやらないよりやった方がいいのかしれないけど、私自身はそいう気がおこらないのはなぜだろう」
 これは私の授業のなかである女生徒が書いた文章である。現代の若者の内部の一端を見事に表現している。一報にはなんとはなしの破局への不安があるのだが、それと真正面から向き合うには、対象が遠く、ぼんやりかすんでいて、はっきりとらえられない。「あまりピンとこない」のである。そのような問題に、「なにができるか」といわれても困るのだ。まことに「私自身はそういう気がおこらないのはなぜだろう」である。
 ザ・デイアフターが封切られ、核戦争の実態がリアルに描かれても、核トマホークの危機をどんなに訴えられても、今日の次は明日があり、その次には明後日がやってくるのだ。なにも変りはしないのである。
 「障子の向うにヒロシマがある」という。だが「障子の向う」側を見ようとしないものには「向う」は見えない。「あまりピンとこない」若ものたちにどのようにして「障子の向うのヒロシマ」を見てもらうのか、15才から18才にかけての発達段階における平和教育の最大の課題がここにあるといえよう。
 現在若ものたちが平和問題のみならず自己をとりまくさまざまな社会的、政治的問題に対し主体的関心を持つには、彼らはのりこえるべき多くの障害をもっている。まず、「子どもの頃、『こうじゃないの、なぜこうなの』ときくと、『ごちゃごちゃいうな、こうといったらこうなのだ』とおさえられているうちに『なにをいっても無理だ』という結論を勝手にだしてしまっている。そんな自分になってしまっているのが情けない」と悲鳴をあげているこどもの側の論理がある。この延長線上に「なにをやってもだめ」と「なんにもできない」がある。さらにそのような若ものたちが多数を占めてくると、「ふつうの高校生はちょっとまともなことや、正しい意見をいう人がいると、ひやかしたり、のけものにしたりする。自分のそのうちのひとりかもしれない」となる。そして、「まじめに『平和』について考える高校生なんてほとんどない」状態になってしまう。
 若のもたちは、「自分の秘めた力」に気づき、無力感や絶望感から立ちなおろうとすると、「ひやかされたり、のけものにされる」危険をおかさねばならない。「参加したくても周囲の目が気になるし」である。そして、平和学習をつみ重ねていくと、自分をとりまく核戦争3分前の状況がつかめてはくるのだが、「毎日の生活にどっぷりつかっている人が私は嫌です。そして、これまでの私がそうであったことに対してすごく腹が立つのです。だが、誰もがそうなのでしょうが、頭ではわかっていても実際行うには困難が山積しています」と、認識と行動のギャップに悩むことになる。
 私たちおとなの側は、このように苦しんでいる若ものたちにもっとていねいにつきあっていく必要があるのではないだろうか。いまの社会はかっての軍国主義下の日本における厳しさはない。ありあまるもののなかで生きる目標をみいだし得ない多くの若ものたちに、ただ「甘えるな」といっていればよいというものではないだろう。この若ものたちの「どう生きるか」の問いかけにきちんと答えられるおとなが何人いるだうか。
(注・文中の「 」は、平和教育のなかで生徒が書いた感想文である。)

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