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原爆で消えた姉へ 其の7(完) [原爆で消えた姉へ]

 お姉さん、私は頑張りました。いま振り返ってみて、我ながらよくやってこられたと思います。生きてゆくということはほんとうにたいへんなことですね。私はレールも何もないごろごろ道を、積みきれない程の大荷物をのせた車を我武者羅にひっぱって歩いた、そんな人生だったような気がします。
 子供たちも元気に巣立ってゆきました。この子たちにとって私はこわい叔母さんだったようです。私は父親役を、お祖母ちゃんは母親役をしました。このお母さんも39年4月20日に亡くなりました。史彦が東京の大学を卒業して帰ってきてすぐでした。
 お母さんはきっと「自分の役目は終わった」と思ったのでしょうね。こうして私がなんとかやってこられたのは、両親の余徳のおかげだと思います。ひとさまのお世話をよくして、真面目に暮してきた広島生まれの広島育ちのお父さん、お母さん。私はどうしようか?と迷ったときに、よく子供の頃になにげなく聞いていた両親の言葉を思いだしました。親のことばは私の胸のなかで息づいていたのですね。
 いま、私は私のこれまでにふれあってきた人たちに心から「ありがとう」といいたい気持でいっぱいです。
 でも、これだけは、これだけは絶対に許せないものがあります。
 お父さんを殺し、お兄さんを殺し、2人のお姉さんを殺したものたちです。そうです、お母さんをも殺した、と私は思っております。原爆は私の肉親たちを一度に14人も殺しました。あのときは、戦争に負けたのだから仕方がない、みんなが被害をうけたのだから、私はまん(運)が悪かった、と思っていました。
「愚痴はやめよう」とお母さんを叱ったこともありました。
 平和公園に原爆慰霊碑ができたとき、私は肉親が祀られた、という思いがしませんでした。深い理由はなかったのですが、なんとなく心にそぐわないのです。しいていえば、あの苦しかったときに、行政は何もしてくれなかった、そのときどきの御都合主義でやっている市が、何を今更という思いでした。
 恨みつらみをあげるならばきりがありません。私が世間知らずだったせいもあったでしょう。またあの碑文も気にいりませんでした。最初に見たときに
「おやっ?」
と思いました。
「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」
アメリカが落とした原爆で、肉親がむごたらしい死にかたをさせられたのに、どうして私たちが過ちは繰返しませんとお詫びをしなければならないのかと思ったのです。ね、そうでしょう。私はこのことを誰に話すこともなく、みんな拒否だとばかりにかたくなに思いつづけていました。私はお姉さんを祀るのは熊野に兄嫁さんがたててくださった新しい立派な墓があるから、あれで充分だと思っていました。義兄さんと2人の名前が刻んであります。しかし考えてみたら、その墓のなかには何も入っていないのです。
 2人ともお骨がないのですもの。

 私は昭和42年の冬、樋口一葉を読んでいるということで山下会の勉強会へはじめて出席しました。雰囲気も、話題も私のこれまでつきあってきた人たちとは違っていました。
 聖戦だと思っていたあの戦争も実は侵略戦争だった。戦争の爪あとはいまだに大きく続いていることなど知りました。
「……あの原爆は亡くなった人たちだけでなく、生き残ったまわりの人たちをも苦しめた」
と、チューターの浜本先生が言われたことばは実感として私の胸にじーんときました。私は泣く泣く原稿用紙に向かいました。私は書いていくうちに、お父さん、お姉さんはなぜ死ななければならなかったのか?と考えました。こうして『あさ』に初めて参加し、そのときに私が言った言葉が『あさ』4号の「はじめのことば」となりました。
 お姉さんも外地で侵略戦争の実態を少しはかいま見ておられるでしょう?それはあなたが使っていた現地の人たちのことなど、そう思いませんか?知らなかったとはいえ、ほんとにおそろしいことですね。
 私は十数年前の原水爆禁止世界大会のとき、大ぜいの人の前ではじめて被爆者として発言したときのことを忘れることができません。私はお父さんとお姉さんの死を訴えました。涙がでて声がつまりました。ふと前の人をみると、同じように頷きながら、涙を流しておられるではありませんか。私はこの人たちを信じ、この人たちと一緒に平和のために行動しようと決心しました。それが原爆で死んだあなたがたの死を無駄にしないことだとわかったからです。

 私はこのころ寝つかれない夜など、とりとめもなく昔のことを思い出し、あれこれと考えるのです、お父さんやお姉さんはなぜ死なねばならなかったのか?、と思ってずぅーっと考えてゆきますと、ある人物に至るのです。戦死したお兄さんをたどっていってみてもやっぱりそこへゆくのです。その人を取りまいている人たちは、だんだんと傲慢になってきて、口先だけはいいことをいっても、あなたたちの死の意味をあえて黙殺しようとしているのではないか、国民をだましている、と思えてなりません。
 私は間違った戦争をおこした国に、むごい死にかたをさせられた、あなたがたに対してお詫びをしてほしいと思います。そしてひとり、1人を丁寧に弔ってほしいのです。いままで永いあいだ何もしないで、ほっておかれたことは許せません。手厚く弔うことが「ふたたび被爆者をつくらない」という誓いにもなるのです。私はいま核兵器完全禁止・被爆者援護法の制定をめざす、大ぜいの人たちの輪の中にいます。
 39年たった広島は世界のヒロシマとして注目されています。平和公園の木々も年輪を重ねて緑の枝を大きくはっています。バスを連ねて修学旅行の生徒さんが沢山こられるようになりました。私たちもときおり被爆の体験を話します。子供たちは今でも原爆症で苦しんでいる被爆者や、また自分が被爆したために子どもや孫に原爆の影響が出やしないかとおびえて暮している被爆者がいること、また自分と同じ年頃の被爆2世、3世に思いをはせて、改めて原爆のこわさがわかった、核兵器はぜったいに使ってはいけない! と真剣な表情で言いました。慰霊碑に折鶴を捧げて黙祷をします。
「安らかに眠ってください 過ちは繰返しませぬから」
私たちの悲願であるこの誓いを、子供たちも正しくうけとめてくれることと信じます。
 お姉さんの可愛い孫、靖君はこのあいだ幼稚園対抗の相撲大会で、決勝戦まで勝ち進みました。歯をくいしばって、体中を真赤にして踏んばっている顔は、子供の頃のお姉さんそっくりですよ。
 この子たちがかっての文彦のように、父母の顔も知らず
「いっぺんでいいから、お父さん!お母さんと声を出してよびたい」
などというこんな悲しいことがないように、またみんなが幸せに人間らしく暮してゆけるように。あやまった戦争で泣いたのは、私たち世代でもう沢山です。あのような時代にならないように、私は頑張ります。
 核兵器の開発は、お姉さんたちを殺した広島型原爆はいまや赤ちゃん爆弾になっております。悪魔の兵器といわれる核巡航ミサイル「トマホーク」は体も小さく、命中率ばつぐんで、その威力は広島型爆弾の15倍~20倍といわれています。確保有量は世界中の人間を何回もみな殺しにできるということです。おそろしいことです。
 私は子供たちが心身ともにすこやかに成長して、未来の平和のにない手となってくれることを希っております。私1人の力は小さくても、平和を守る草の根の1人としてこれからも行動してゆきたい。それが生き残った私のつとめだと思っています。
 お姉さん、どうぞ見守ってくださいね。
(1984.6.28)


其の7(完)

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