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原爆で消えた姉へ 其の6 [原爆で消えた姉へ]

 昭和21年3月、私は3人の子供と母の住んでいる廿日市へ帰りました。母と枕を並べてねていると、ついこれから先どのようにしたらよかろうか、という話になりました。幸いに住むところはできた。この家はそら、お姉さんも知っているでしょう、洋服屋の左官町の叔父さんが、こつこつと辛抱して廿日市の野村の叔母さんの裏に建てた3軒の借家のうちの1軒です。借りていた人が終戦になって工場が閉鎖になったため、郷里へひきあげられたのでした。左官町の叔父さんのところは家に居た7人が全滅でした。娘ざかりのいとこたちも即死だったそうです。お母さんは子供たちが寝しずまると、私と離れていたときのことを話されるのでした。知り合いに疎開させていた荷物を、使いの人に取りに行ってもらったところ、「預かっていない」と言われて口惜しかったこと。なかでも一番つらかったことはなんといっても史彦を「手放せ」と言われたことだった。世話になっている妹たちにそう言われると返す言葉がなかったそうです。私は叔母さんたちは現実をみて言うていることがよくわかりました。
「家も財産も失くして、4才の史彦をどうして育てることができるのね?あの子が20才になるまで生きていられるかどうか?73になるのよ。すどい(邪険・冷酷)ようなが、ここはよう考えて、史彦が将来でまよわないためにも、熊野へ渡したほうがいいと思うがね、幸いあちらにはおばあさんも居られることだし…。
お姉さん1人の面倒は私たちがみてあげるから。そのうち四郎さんも復員してくるでしょうし…、でもあれにも4人の子供が居るんじゃけんね」
母は言われて仕方なく熊野へ行ったけれど、仏壇には2人の息子の遺影がまつってあるし、家は兄嫁さんが2人の子をつれてやっておられるし、ここの家も大変だと思い、とうとう何も言わずに帰った。それにいままで史彦はあちらへはめったに行っていないので馴染みもうすく、自分の傍を片どきもはなれようとしなかったということでした。がんぜない子どもでも、自分の身の上におきた重大なことを感じたのでしょうか。母の言葉は続きます。
「私は史彦を手放すことはできない。富美ちゃんに済まんからね、あれは私の身代わりになって死んだんじゃけんね」
しばらく言葉が途切れました。苦しかったあの時のことを思い出して、胸がつまるのでした。
「私はなんべんも死にたいと思った。でも史彦がおるからそれもできず、お寺へ入りたい。どこか入れてくれてのお寺はないだろうか?と思うた」
いままで夫をたよって生きていた母が、年とって突然になにもかもなくなって、どうして生きて行くことができるでしょうか。まして幼い孫までつれて。
 私は、自分の不甲斐なさに涙がこぼれました。あんなに可愛がってくれたお母さんや、お姉さんに何もしてあげられなかった。母に死のうとまで思わせた私は、なんと親不孝な娘だったろう。これからどうしよう。お父さんの有り難みがよくわかりました。この夜私はお父さんやお姉さんの死を悲しむあまりに胸が痛くなりました。このとき私は生まれてはじめてものを思うことで胸が痛くなるということを経験したのでした。
 4月に入って、北京の大きいお姉さんが引き揚げてきました。広島の様子がわからないので廿日市の駅へ降りたということでした。11才と9才と7才の男の子に、体くらいもある程の荷物を背負わせ、自分は四男を背負っていました。やっと家に辿りついたという感じでした。
 私が
「お父さんは原爆で死んじゃったんよ。お姉さんはとうとうわからずじまいよ」
と言うと、がばっと畳に伏せたまま、肩を震わせて泣きました。お母さんも私も泣きました。しばらくして
「大きいお姉さんの家財道具は、お父さんが疎開してくれちゃったけん、助かっとるよ」
と言ったら
「何もいらん!なにもいらん!お父さんが…」
といってまた「わっ」と泣きました。
 それから間もなく大きい姉さんは敗戦から引き揚げまでの無理がたたって寝ついてしまいました。折角いのちがけで故郷へ帰りながら十日市に帰ることもなく、廿日市の仮住まいで亡くなりました。11月12日でした。お姉さん、私はいままたくり返して思います。
 あの奉天の別れが結局は2人の永久の別れになったのですね。戦争という大きな渦の中で2人の若い姉妹は目に見えぬ糸にあやつられながら、死の淵においこまれていきました。
 大きいお姉さんも4人の子供を残してどんなにか死にたくなかったことでしょう。私はその頃は商売を少しずつはじめたばかりで、そのことで頭がいっぱいでした。大きい姉さんの看病も殆んどお母さんにまかせてしまって、今ではあのときにもっとよく看てあげたらよかった、と後悔しています。
 あのころは子供たちに食べさせことに精いっぱいでした。油断していると米びつがすぐに空になるのです。お姉さんが苦心して持って帰った着物も、私の持ちものもつぎつぎと米にかわってゆきました。
 兄さんの戦死の公報が入りました。20年1月12日に、南シナ海ですでに亡くなっていたのでした。亡くなって2年近くなろうとしていたのに、お母さんや兄嫁は今日か、今日かと復員してくるのを待ちわびていたのでした。ここでも幼い4人の子供が残されました。私は十日市の焼跡へ家を建てようと決心したのでした。


其の7に続く

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