SSブログ

傷あと-私と家族の被爆記- 其の1 [傷あと-私と家族の被爆記]

傷あと
-私と家族の被爆記-
        嘉屋重 順子 45才(昭和59年時点)

 「あさ」に、はじめて寄稿して15年になります。1969年8月に書き、次の年の号にのせたのです。私は会員ではありませんが、一、二度学習会に出席し、いろんな集会にも一緒に参加して、多くのことを山下会から学びました。また母と姉の原爆手記も、その本に載せました。「戦争はいやだ」を言葉に書いて、それが大ぜいの人達の目にふれたということは、自分の考え方をしっかりと前へ向けさせたのです。
 その後、数度、修学旅行で来広した高校生や中学生へ私の体験を話しました。背中に火傷を負い、そこにうじ虫がいる中で死んでしまった姉のこと。氷を買いに行って行方不明になっている姉のこと。自分のこと。8月6日のことなどを…。どの高校生も中学生もみんな真剣に話を聞いてくれました。これならきっとこの生徒たちは 平和を築く担い手になってくれるだろうと思える位に。
 私は 今の学校に転勤して15年目になります。その間、毎年7月から9月にかけて、平和教育にとり組んできました。(わたし達の学校は学校全体でとり組んでいます)でも、そのとき、自分の体験を学級の生徒に話した位で、学年全体の生徒の前で 話したことはないのです。他の学校の生徒さんには話をして、自分の学校の生徒達に話をしないのはおかしいと思います。私が今まで話をしなかったのは、子ども達のまわりにいる大人達に戦争の体験者がいて、子ども達は戦争の残忍さを聞くおりも多かったのです。だから、あらためて 話をする必要はないようにも思えたのです。また つらいことはあえて話したくないものです。
 しかし、今は 以前の状態とは大きく変わって来ています。戦後うまれの保護者や教師が多くなって来ていますし、戦争の体験を語れる者は私達の年代が最年少になるのです。
 原爆の問題は過去のことではなく、今の地球の人々を死に追いやるかどうかのところまで来ています。今、教えている子ども達が生活している学校のグランドでは、多くの被爆死亡者が山づみにされて焼かれました。そんなことなどを考えて、私は、学校の中で、一年生の生徒全体の前で、被爆体験の話をすることにしたのです。そのことは、より自分の姿勢を正すことになるでしょう。「十フィート運動」でできた「人間をかえせ」の映画を見る前に話をするとこになりました。何をどのように話すかを考えている時と この文章をかく時が重なりましたので、その内容と重ねながら書いてみようと思います。

 昭和20年8月の私の家族は次のようでした。
父(当時48才)
 戦争には行っていませんでした。兵隊検査に合格しなかったようです。針工場を経営。
 岡山にも工場がありました。
母(当時39才)
 子どもを9人出産し、男の子(当時大学生)を頭に8人も女の子を出産していますが、長女は10才
 で病死しました。他はみんな元気に育てておりました。昭和20年5月頃子ども5人をつれて山県
 郡へ疎開していましたが、五日市の伯母の家へ 病気見舞いに行くため、子どもを連れて広島へ
 帰っていました。
兄(当時20才)
 大学生でしたが 徴兵になり山口におりました。
一番目の姉(当時すでに死亡=10才で病死)
二番目の姉(当時17才)=英子
 女学生で勤労奉仕で日本製鋼所へ行っていました。当日は休んで家にいました。
三番目の姉(当時15才)=博子
 女学生で勤労奉仕で学校へ出かけていました。当日、進徳女学校で被爆しました。
四番目の姉(当時12才)=道子
 六年生で、家族疎開をしていましたが、広島へ帰って来ていました。当日は横川の店へ氷を買い
 に行っていました。乗って行った自転車は店の前にありましたが、本人は行方不明のままです。
五番目の姉(当時10才)=勝子
 四年生で、姉の英子と一緒に家にいました。
私 (当時6才)=順子
 一年生で 当日は家の近くの叔父の家へ、妹と一緒に遊びに行っていました。
妹 (当時3才)=富美枝
 私と一緒に パンツ一枚の姿で叔父の家に遊びに行っていました。
妹 (当時11ヶ月)=淑子
 当日、五日市の伯母の家に行く予定で、母の背に負われて出ていました。

 8月6日の朝は、天気が良く、姉の英子と母は 早くから洗濯をしていました。母と妹が外出した後、私は3才の富美枝をつれて、近所の叔父の家に遊びに行きました。叔父の家には4人の男の子がいましたが、下の2人は私と年の違わないいとこでした。その朝も、一番下のいとこと妹と私は、勉強部屋で レコードを聞いていました。おばは掃除をしていました。その時、B29が飛んで来ました。私といとこは B29をよく見ようとして 机の上にあがり、そこから窓のレールに立ちました。B29は朝の太陽をあびてキラキラと光っていました。戦争のまっ最中であるのに、平和時のように、ゆったりと相手国の飛行機を見ていたのです。その飛行機が世界ではじめて人類の上に原爆を投下するとはつゆ知らず。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。