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傷あと-私と家族の被爆記- 其の2 [傷あと-私と家族の被爆記]

 ピカッとひかったところまでは知っています。気づいた時は、建物の中側の窓の下に倒れていました。机も椅子も畳もその下の座板もありませんでした。私も妹も土の上にいたのです。おばは玄関のあたりに、妹はその少し手前で、2人とも気づいて立ち上がろうとしていました。机や椅子や、畳やその下にあるはずの座板は、私達が窓から落ちる前に一体どこへ飛んで行ったのでしょうか。あれだけの重さのものが一度にです。それもほんの短い間に。幸いに叔父の家は新築して間がなかったので倒壊しませんでした。私はゆっくり立ち上がり、外に出ました。まわりの家々は、少々古かったせいか、ほとんどの家は倒れて、その上に屋根がありました。外では近所のおばあさんが石垣の下敷きになって「助けてェー 助けてェー」と叫んでいました。その人を助けようと、お嫁さんが石をのけようとしていましたが、なかなかのけられません。おばも手伝いはじめました。しかし、女の腕では、どうすることも出来ませんでした。その時はまだ火の手は来ていませんでした。ふと気がつくと少し離れた所にまだくずれずに残っている二階建の窓が、パッと火を吹いてもえはじめているのです。それを見ると急にこわくなり、一人で、ペシャンコになった家の屋根の上を歩いて横川(今の中広中学校の北側は川で、それを横川と行っていました。そこに土手があったのです)の土手まで来て、その土手を西へ向かい、中広線(今はもうありません)を渡りました。渡って川原へ出ました。逃げる人達が川原へ行っていたためでしょう。ふとふり返ってみると、今 渡って来た橋が、両端からもえはじめているのです。川原のそばの竹藪のところに、多くの人達が座っていました。私が座って休んだかどうかは覚えていません。蟻の行列のように、一列、川を渡っている人たちがいます。私は その列になんとなく加わりました。子どものわたくしには少し深かったので少々困っておりますと、私の前を歩いていたおばさんが、私を抱いて渡ってくれました。そのおばさんはきゅうりを数本持っていました。
 私は、姉たちが日やけしたり、ちょと熱い物を持ったりして 火傷した時に、きゅうりを切ってつけたりしているのを思い出したのか『きゅうりをもらって 火傷につければ、早く治るのに』と思いました。だから、自分が火傷をしているのを、すでに その時 わかっていたのでしょう。打越町のあたりを 山の方へ向けて歩いていると、偶然にも五日市のおじと親戚のおじいさんが 一緒に歩いているのに出会いました。私から名乗って、おじの背中に負われて己斐あたりの救護所へ行きました。すでに たくさんのけが人が、行列をつくって治療を待っていました。おじは、知人が居たのか
「自分の娘なのだから、早くしてくれ。」
と言って、私をつれて前列に行き、薬をつけてもらい、顔じゅうに包帯を巻いてもらって、五日市のおじの家につれて行ってくれました。どの道を通って行ったのかわかりません。
 五日市の伯母の家には、すでに 母が妹をつれて着いていました。母達は、己斐で満員の電車を見送って、次の電車を待っていた時に 被爆しました。丁度、電車の影になって、光線はあびないですみました。横川の方までひどいとは思いもせず、家の方へ電話連絡しようとしても連絡がとれず、五日市の家まで、石内の峠を越えて歩いて来たのです。広島の状態を人の話で聞くと、たいへんなことになっているらしいので、子どもにはもう逢えないのかと思っていたようです。私が来たものだから 本当に喜びました。おじは、私を母に渡すと また広島へと引きかえしていきました。
 次の日くらいだったでしょうか。大八車で、おばやいとこや姉2人妹たちが、五日市の家に来ました。一度にけが人や病人で家の中は一パイになり、その世話でたいへんでした。私は顔、手、首などを火傷しており、すぐ上の姉は、顔、足の股(もも)にガラスで大けがをしていました。その姉と私を大八車に乗せて、母は楽々園の救護所まで 何度も通ったのです。母も下痢やはき気が続き、食欲はなく、まわりの人達は 母の体の事を随分心配したのです。

其の3に続く

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