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傷あと-私と家族の被爆記- 其の3 [傷あと-私と家族の被爆記]

 楽々園の救護所は、兵隊さん達がテントをはって作ったものでしたが、どれ位の医薬品があったのか知りません。それでも姉は、顔の切り傷(ガラスで切ったようです)を何針か縫いあわせてもらいました。
 私にとっては、包帯の取りかえは痛く「兵隊のバカ!兵隊のバカ!」と叫んだものです。そんな時、兵隊さんが毛糸でつくった人形や、貝を布でくるんだ飾りをくれました。もしかすると、それらは 兵隊さん達にとっては 大切な品で、いつでも身につけておきたい位のものだったのではないかと今にして思うのです。

 三番目の姉、博子は、皆実町方面の学校に寝かされていたのを父がやっとの思いで見つけ出し、10日頃に五日市の家に帰って来ました。
 姉は学校の校庭に整列するために下ぐつにはきかえている時に被爆しました。その当時は目立つ色はいけないとされ、真夏でも 黒っぽいものを着ていました。屋根のある所だったのですが、光を全面的に吸収したためか、背中に火傷を負いました。姉が自分で歩いてその学校まで行ったのか どうかは、よくわかりませんが、背中の火傷の部分に 習字の紙(文字の書いてある紙)がはってあり、床の上にじかに寝かされていたのです。多くのけが人で、どの教室も一パイでした。父は人づてにその学校にいるらしいと聞いて探しに行ったのですが、自分の子どもを探すことは困難で、大声で
「吉村博子はおらんか! 吉村博子はおらんか!」
と叫びつつ各教室をまわったのです。足もとにいる我が子さえ見わけがつかない位の変貌でした。足もとの方からの
「お父ちゃん!」
という声でやっと見つけることができたのです。背中の火傷は、床の板とくっつき、その間にうじが一パイでした。一日におも湯2杯を食べさせてもらい、それで生命をつないでいたのです。
 父は自転車の上に2枚の板をしき、その上に姉を寝かせて、煉瓦を前にぶらさげて、姉の上に布をかけて、休み休みして、歩いて 五日市の家まで帰って来ました。途中多くの人が、もう死んでいるものと「南無阿弥陀仏」と手をあわせておがむのです。そのたびに「まだ 死んじゃおらんよ!」と言ったのです。
 五日市に着いた時は 夕方だったように思いますが、姉は ことのほか元気で、「ただ今!」と大声でいいました。家の中にいても わかる位の声でした。
 姉はもともと明るい性格でした。よく妹たちの面倒を見て、子守りをしました。歌が好きで、よく歌を歌っていました。おやつをもらうと、とっておかないですぐ食べてしまうようなカラッとした姉でした。その姉が、背中全部に火傷をして、それでも、元気な声で 帰って来たのです。しかし、その元気な声とは 裏腹に、体は随分衰弱していました。自分で体を起こすことも、寝巻を着替えることもできません。また、背中の火傷の中にいるうじが、取っても取ってもとり切れず、肉の中の方へ喰い込む始末でした。その時は 随分痛がりました。背中の肉はくさくなり、部屋中が、その臭いで一パイでした。おじやいとこ達がよく我慢をしてくれたと思います。
 敗戦となるまで、何度も飛行機が上空を飛びました。また爆弾を落としはしないかと、みんなこわがりました。今度はひどいけがをしているので逃げることができません。だから病人のまわりに布団などをつみ重ねたりしたものです。
 8月15日の敗戦のラジオ放送の時には、1台のラジオを廊下に出して、そのまわりに みんな集まりました。ある者は 庭で直立不動で、ある者は廊下に正座して聞きました。放送が終わると、大人達はわっと泣き出しました。私が泣いたかどうか覚えていませんが、何かホッとしたように覚えています。
『これで戦争は終わった!これで飛行機がきてもビクビクする必要はない』と、子ども心に安堵しました。
 姉の博子が死んだ日(8月17日)のことは、はっきりと私の脳裏に残っています。おお人数の朝食ですから、床から出られない姉は、みんなが終わって母などに食べさせてもらっていました。その朝も そのつもりでした。だから、姉(博子)が
「おかあちゃん! 来て!」
と叫んだ時も、母は
「ちょっと 待ってね」
と言ったのです。そして 朝食を持って行ってみると、すでに 姉の息はとだえていました。母が大きな声で
「博子ちゃん! 博子! 博子!」
と名を呼んではみたものの、姉は再び声を出しはしませんでした。
 なぜか、姉の葬儀については何一つ覚えていません。のちに、母に尋ねると、五日市の火葬場へ運んで焼いたということです。子どもの私は、きっと留守番をしていたのでしょう。
 姉の博子がなくなって、しばらくして、山県郡の疎開先へ行きました。その頃、よく効くということで、呉の方から手に入れた薬を使用しはじめました。その頃から、私も姉も傷がなおりはじめました。
 田舎では「町の人が贅沢をするから 罰が当たったんだ」と嘲笑されました。だから、何か悪いことをして来たような気分で生活しました。母は早く広島へ帰ろうという気持ちで一パイのようでした。
 9月に大雨が降りましたが、疎開していた所は 洪水にはなりませんでした。川のそばのいも畑などは流されたりして、水の引いた川原には、流木や、いもがありました。わたし達はみんなより少しおくれて行ったものですから、芋はあまり拾えませんでした。それでも持って帰った芋を誰に気がねもせずに食べられるのが、とても うれしかったです。

 しばらくして 手まわりのものだけ持って広島へ帰って来ました。
 広島の家は、叔父の家の跡へ建っており、バラックでした。六畳一間に戸のついていない押し入れのある部屋と、土間に簡単な流しとポンプのある家でした。天井はなく、屋根のトタンは穴があいていました。だから雨もりもしました。それでもうれしかったのです。まわりの人達はみんな町の人たちです。ピカドン(原爆のことをそう言っていました)にあった者ばかりです。その家には、すでに父と兄が住んでいました。兄は、9月の大洪水の話をしました。押し入れの棚のところまで水が来て、その棚の上にあがっていたのだそうです。
 その大洪水は広島にとって 恵みの雨だったと、ある物理学の先生から聞いたのは ごく最近のことです。地中に残留する放射能の量は、その雨でずっと少なくなっただろうということでした。あの大洪水がなかったら もっとたいへんなことが広島でおこっていたでしょう。

 広島での生活は、原始的なものでした。あかりも、道具も、ラジオも、新聞もなく、暗くなれば寝るというものでした。横川駅の近くの軍の倉庫へ、アルミニュウムの食器やかめ(ものを入れる器)をとりに行ったり、ローソク工場の焼け跡へ ローソクを探しに 近所の人たちを誘っては行っていました。めずらしいものが手に入ると、みんなでわけていました。

 父は疎開させていた針を持って帰って、それを売りました。よく売れたようです。少し 大きな家を、バラックのそばに建てました、風呂も、便所も露天でなくなりましたが、天井はありませんでした。屋根の下に大きな梁があり、それにブランコをぶらさげて、妹たちは遊びました。夜、近くの兄の友人達が来て話している時、上からそのブランコが落ちて頭に当たったりしたことは、今では思いでの一つになっています。
 もとの家のところ(原爆投下まであった自宅のところ)に、工場も建て、本建築の家を宮大工にたのんで建てました。その頃 母は10番目の子どもを身ごもり 新しい家で出産しました。昭和22年11月のことです。

 朝鮮戦争がおこった時です。座敷のすみで父が一人「これで景気がよくなるぞ!」と言ったことを 私はしっかり聞いて覚えています。私は不思議に思いました。
 『戦争が起こるとなぜ景気がよくなるのか。まして 直接戦争に関係のない針のような物品がなぜ売れるのか。父は、ついこの間の戦争で 自分の子どもを2人も失っている。生き残った子どもの中の2人は、大けがや大やけどを負って、その跡も残ってしまっている。戦争でうけた心身の傷はまだまだなまなましいはずであるのに、一体 何を考えているのだろう。他の国のできごととはいえ、すぐ隣りの国であるのに』と
 父のその言葉は いつまでも忘れられず、戦争がおこれはせ景気が良くなるという論理もなかなか分からず、大人になってやっと理解できてきたのです。父のその言葉を聞いてから、父に対する子どもの思いは変わってしまいました。何か冷たい父の裏をのぞいてしまった、見てはいけない父をみてしまった、という気持ちがずっと続いていました。父のその言葉が、当たっておらず、景気がよくならなければよかったのでしょうが、父の会社だけでなく日本全国が景気をもりあげできたのです。父の見る目が確かだったので、なおのことよくありませんでした。しかし、日本全国の景気がよくなっても私の心身の痛手はいやされはしませんでした。
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