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傷あと-私と家族の被爆記- 其の4 [傷あと-私と家族の被爆記]

 私は 8月6日、白い絹でつくったワンピース(姉の着物にするために白の反物を買ってありました。その布を母が子ども達の服にしてくれていたのです)を着ていました。窓の上にあがり飛行機を見ていたのですから、顔面全部と、窓を持っていた右手を火傷しました。まわりはまだ もえていなかったのですから、光線によって火傷をしたのです。うすい布でも白でしたから 体の方は火傷をしなくてすんだのです。布から出ている左の手や、二本の足はなぜ火傷をしなかったのか と考えると、窓の外には植木もあったし、ブロックの塀もあったように思います。そんなものなどが光線を遮断したのでしょう。
 顔の火傷はひどく、目からはうみがいつまでも出るし、女の子ではあるしと、親たちは心配しました。そのために顔には、他のところよりたくさん薬をつけたりしたためか、わりによく治っています。しかし、手の方は、くっきりと火傷の跡が残ってしまいました。
 私が 大学生の頃 父が「火傷の跡を手術するか?」と言ったことがあります。その話を素直に受けとれず、なぜそうまでしなくてはいけないのか と反発を感じました。どういう言葉で その場の反応をしたか覚えていませんが、手術の話は 何となくと切れてしまいました。こうして書きながら 父の気持ちを考えてみると、若い娘への思いやりで、おずおずと手術の話をしたのだと思います。やはり 父の心にも終戦が完全には来ていなかったのだと思えるのです。その父も本当の意味の終戦を迎えずに 昨年8月7日他界してしまいました。
 私への原爆の影響は、火傷の跡を残したことだけではありません。大学生の頃から、過労になると、股(もも)の部分に、打ったわけでもないのに、指でおさえた位のうすい青い点が出るようになったのです。それは 私の体調を知るバロメーターのようなものになっています。それが出た時には、これはいけないな、と少し注意をして生活をしていますと、消えていきます。自分で、『ああ、少し疲れたな。少し休まなければいけないぞ。』と思っている時に出てくれると、『そうだろう。疲れているからな。』と思いますが、自分でその自覚がない時に出る場合は、少々がっくりするのです。
 病院で、そのことを尋ねて、みても、「年をとるとそんなのは出てきますよ。」と言われました。原爆と関係がないという言葉になるのですが、本当に大丈夫かと心配になってくるのです。こうも考えて自分を安心させたりもします。『私は 8月6日中に広島市内から脱出したのだから、放射能が体に影響することは少ないのではないか』と。
 自分の体の事なのに、自分が受けた原爆のことなのに、自分は何もわかってはいない。自分にできることは、過労にならないように、自分のペースを知って、そのペースで生活すること位なのです。
 私がもし医者であったら、自分の体のこと、原爆のことがわかるだろうか。いや、やはり わかりはしない。人体への影響については、部分的にわかっているのだろうが、全面的には何もわかってはいない。だから、アメリカは、人体への影響についてのデータをいろんな角度から集めているのです。


其の5に続く
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