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原爆後の私  其の1 [原爆後の私]

終戦の日が近づいていますね。
(メインブログ「ゆうきリンリン…」で'12.8.12に投稿)
山下会誌 「あさ 18号」には沢山の原稿や
読まれた方々からのお手紙が、120ページ近く記載されています。
ここで紹介するのも、草の根運動になるのかしら?
まだ『傷あと』しかご紹介できていないので
できる範囲で頑張ってみようと思います。



原爆後のわたし
橋本 幸子 58才(昭和59年時点)

 「あっ、おとうちゃん、げんばくドームだ、にっぽんとアメリカがせんそうして、アメリカがゲンバクをおとしたんよ。おとうちゃん、しっとる?」
 6歳の孫が大きな声で車の運転をしている父親に話しかけました。不機嫌そうに押しだまったままの息子の顔を見て私は首をすくめました。あれは去年でしたか、電車で相生橋にさしかかったとき、当時、5歳と6歳になる孫が原爆ドームを指さして、
「あれはなに、どうしたん、おばあちゃん、おしえて」
と聞きました。まだ小さい子供だからとおもったのですが戦争でアメリカが原爆をおとし日本が負けたことをおしえました。それからというものは相生橋を通るたびに、
 「原爆ドームだ」
 「原爆ドームだ」
と大きな声で叫びます。そのあとで必ず、
「アメリカが落としたんよね。」
とわたしの顔をみて言います。バスに乗っていようと電車に乗っていようと必ず大きな声で言います。今ごろはそのあと、いろいろの質問がとんできます。
 「どうしてにっぽんはアメリカとせんそうしたん?」
 「どうしてにっぽんはまけたん?」
 「ゲンバクがおちて、ヒロシマはどうなったん?」
 「どうしておばあちゃん、しななんだんね。」
 「やけるまえのヒロシマは、どうようなかったん?」
 「このへんにこどもはおったん?」
 「わたしんちもやけたん?」
2人が競争して「どうして」「どうして」の連発で際限がありません。先日、やはり電車のなかで
 「ゲンバクってどんなかたちをしとったん?」
 「どのくらいのおもさなの。」
 「え、おしえて」
意地わるく大きな声でわたしにせまります。座席の人たちの目が一斉にわたしに集まりました。曖昧なことはいえず、
 「おばあちゃんも、わからないからこんどしらべとくね」
この様に勉強不足のわたしを困らせる孫たちですが、わたしの一言で戦争のことに関心をもってくれたことがうれしく、この子たちがわかるような原爆のおはなしの本が目につくと買ってきます。そして2、3日後、
 「このあいだ、おばあちゃんが買ってあげた本、よんだ」
と子供に聞きますと、
 「おとうちゃん、あの本、きらいだって、よんでくれないの」
不足そうにわたしに告げます。
 「じぶんでよんだら。よしこちゃんだったらよめるよ。1ねんせいだものね」
それから2、3日して
 「おばあちゃんがかってくれた『ルミちゃんの赤いリボン』よんだよ。よしこはリボンが頭につけられるからいいね。おじさんもいなくなられたってどういうこと」
 とききます。よしこはとてもリボンが好きで、いつも頭にリボンをつけています。
ルミちゃんが、おじさんと一緒に、8月6日に広島へ出かけたまま帰らないお母さんをさがしに行っただけなのに、原爆症で髪が抜けてしまい、お母さんに作ってもらったリボンが頭につけられなくなったことが特にかわいそうだったようです。また、おじさんがなくなられたと書かれている意味が解せなかったようです。
 それにしても、私は親でも無いのに、また出過ぎたことをしてしまって、と複雑な気持ちになり自分のしたことを後悔します。でも少し気分が落着くと、私は自分自身が被爆者であるということに思い当たります。「戦後39年もたつのに」とよく言われますけれど、原爆にあったわたしたちの苦しみはいまだに続いております。39年たっても少しも苦しみが少なくなったと感じた日はありません。あの太平洋戦争が実は日本軍の侵略戦争であったと今更教わっても、すぐには信じることが出来ませんでした。国を信じて私たちはいろいろな困難に耐えました。毎日、「バンザイ」「バンザイ」と死出の旅に立つ兵士を見送りました。特にわたしたち若い女性の見送りが兵隊さんの励ましになるからと、遠方の家まで出掛けたものです。他方では色々と、悲劇が生まれていることも無視して…
 またわたしの勤めていた軍需工場でもお上からの命令で毎日、兵器の増産にと追いたてられ、歯を食いしばってガンバリました。配給がすくなくいつも空腹をがまんして働きました。わたしたちが空腹を我慢した分だけ外地に行っている兵隊さんが少しでも助かると、不平も言わないでただお国のため励まし合いました。「欲しがりません勝つまでは」を合い言葉に。また、戦争末期には広島も空襲警報が頻繁に発令されるようになりました。でもなぜか広島は素通りです。その度に
 「広島は良いところじゃね、敵さんも広島には七つの川があるけぇ爆弾を落としても効果の無いことを知っとるんよね」
と言い合っておりました。
 ところが昭和20年8月6日、たった一発の原子爆弾で広島は壊滅してしまったのです。炸裂した爆弾は20万人もの人々を殺しました。その人たちのなかには日ごろ、わたしたちが自慢していた川に助けを求めたため死んだ人も多くいます。また親戚や知人を捜すためヒロシマに入り、残留放射能におかされ、亡くなった人達もたくさん出ました。
 私は7日の朝、早く地御前の勤務先を出て、舟入の自宅(爆心地から2.2キロメートル)にむかいました。昨日の朝出勤したときの様子は全くありませんでした。昨日の朝は父が一人家に居た筈です。どこがどうだかわからないような瓦礫の中をとにかく父を探して歩きまわりました。夕方近くなって、江波小学校にねかされていた父を見つけることが出来ました。体中にガラスの破片が突きささり、目も鼻も口も血のりでコチコチになり、男女の区別も付かない状態でした。父のほうから私の名を呼んだから分かったのです。目が見えないから、人影や足おとがするたびに私の名を呼んでいたと言います。あのとき、地の底の方から呻くように「幸子じゃないか」といった弱々しい父の声を思い出すといまでも涙がにじみます。
 その夜は学校の廊下の板の間で一睡もしませんでした。教室の中もまわりの廊下も沢山の人達が座ったり寝ころんだりして居ました。
 その人たちの泣き声と呻き声の入りまじった、今おもいだしてもぞーっとする様な一夜でした。だんだんと夜が明けるに従って、まわりも静かになったと思い、あたりをみまわし、びっくりしました。先程まで「水を呉れー」とか「痛いよー」と云っていた人たちが殆ど死んでいるのです。父が、「水が飲みたい」と云うので死んでいる人たちをまたいで行きかけましたが、水飲み場には何人もの折り重なった死体があるので引き返しました。
 私はこうしていては父も死んでしまうとおもい、勤め先の地御前に連れて行こうとひき返しました。そして会社の車でむかえに行ったら、父の姿はありません。伝言板に「父をつれて帰る。幸子も田舎へ帰れ。」と書いてありました。母の兄が瀬野からきてくれたのです。しかし私は、会社の診療所でみた沢山の怪我をした人や、病人をみすてては、田舎に帰れませんでした。

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