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原爆後の私  其の2 (完) [原爆後の私]

 軍需景気の波に乗って町工場から全国でも六大模範軍需工場にまでのし上がった私たちの会社でしたが、原爆投下と同時に機械は停止し、命のある人たちは散ってしまい、診療所に運ばれてきた動けない人たちだけが残ってしまいました。そのたくさんの人たちを看護婦さんが一人でてんてこまいをして看ておられましたので、みかねた私たち4、5人が手伝うことになったのです。なれないことばかりでしたが一生懸命しました。それでも毎日、なん人かが亡くなっていかれます。間で1回だけ2、3人連れで医者が見廻りに来ました。その後でも、手当は赤チンをぬり、アスピリンを飲ますことに変わりありませんでした。その内8月も終わりごろだったと思います。わたしは体調をくずし何日も熱が下らず、ノドと歯ぐきから出血するようになりました。丁度その頃、舟入川口町に叔母がトタン屋根のバラックを建てて住むようになりました。私はそこで寝ついたまま1ヶ月あまりも床から起き上がることが出来ませんでした。「ここまで頑張ったのに、やっぱりわたしも死ぬんかなぁー」と熱のある頭でぼんやりと、わたしの腕の中で亡くなった何人かの人のことや、田舎で寝たままでいるという父のことを考えて1人泣いておりました。
 その後、元気になり、結婚、2人の男児出産と、普通の人と同じ道を歩いていたつもりの私が、35年の3月、近所の病院から、ABCC、広大病院とたらい廻しされたあげく、
「大したことはないと思いますが、早いとこ悪いとこは、取っといた方が良いですよ。」
 と、いとも簡単そうに言われ、手術に踏み切りました。その結果、摘出したものが「癌」だと分かったときは目の前が真っ暗になりました。二次放射能のガスを吸った者が私のような「甲状腺癌」になりやすいとも言われました。そのとき、長男12才、二男6才でした。二男は今年から小学一年生になると張り切っておりました。わたしはこの子供たちを残して死んでなるものか、と思う一方、あのとき苦しんで死んでいった多くの人達が毎夜夢に出てきます。あんな苦しみをしなければ死ねないという恐怖で、とうとうノイローゼのようになりました。
 こんなおもいをしながら、今までに3回、同じ手術を繰り返しております。でもわたしがこうなったのは、自分の不注意でも、また生まれつき病弱だったということでもありません。ヒロシマに原爆が落され、その瓦礫の上を歩きまわり、火傷をしている人たちを抱いてあげたり、御飯を食べさせてあげたり、しもの世話をしてあげたためです。その二次放射能を受けたため39年たった今でも、わたしの苦しみが続いているのです。だからこれは決して私の責任ではなく、戦争をした国の責任ではないでしょうか。それなのに私は今まで国から何の弁償も、謝罪も受けていません。原爆手帳は持って居ても、病院に行くと社会保険優先と言われ一度も使用する機会がないまま、タンスの引出の奥でねむっております。健康管理手当も受けておりません。(入院や手術をする場合、原爆手帳の方が良い薬が使えたり、色々有利だと聞いていますが)
 このような苦しみを通ってきたわたしたちが、今黙っていたら、わたしたちの親や、わたしたちが過ちをおかした道を、今の若いお父さんたちがまた通るのではないでしょうか。
 わたしは長男夫婦と同居しております。2人とも被爆二世です。孫が長女7才、長男6才、2人とも腕白ざかりで、毎日が嵐のようににぎやかです。特に長女は幼稚園に通うようになってからは、これという病気もせず、幼稚園最後の1年間は皆勤賞をもらって大変なよろこびようでした。その子が3月になって風邪を引き、熱が2、3日おきに40度近くも出ます。そして吐いたりお腹が痛いといっては泣きます。そんな状態が1ヶ月あまりも続きました。たまりかねてある日、
「百合子さん、お医者を替えてみたらどうかね」
と嫁に言ってみました。翌日、かねて評判の良いと聞いていた小児科に出掛けた嫁がお昼過ぎに帰ってきました。
「風邪がこじれたんだろうと云われました。血液検査をしてくださったのでおそくなりました。佳子ちゃんの白血球、普通の人の3倍に増えているそうです」
そして少し間をおいてから
「お義母さん、白血球が増えるってどういうことでしょうね」
と小さな声で聞きました。私もそれを聞きながら気になっていたことだけに答えようがなく、
「さぁねぇ、大したことはないんでしょ。佳子ちゃんの体が弱っているからね。」
と言いましたが、やはり彼女は不安そうな顔色をしておりました。わたしは自分の部屋で1人になると、体中の力が抜け、ペッタリそこへ座り込んでしまいました。今まで何度こんなおもいをくり返したでしょう。
 長男は小さいとき、すぐに熱を出す子でした。ぐったりした子を背に負っていき記念病院へ入院もしました。二男はしょっちゅう鼻血が抜け、そのたびに大騒動したものです。手と足を3度も骨折しました。どうしてうちの子だけこんなに弱いのだろうと思いました。そしてわたしが被爆者であることと思いあわせ、不安になります。熱の高い子を抱いたまま、一睡も出来ない夜などは、そのおもいとのたたかいでした。
 わたしが苦しんだあの時のくるしみを、被爆二世である嫁が、今味わっているのだと思うと、たまりませんでした。翌日、山下会に出掛け、孫の病気のことを話しながらわたしはとうとう泣き出してしまいました。昨日から、特に嫁の前では明るくふるまっていたのが、皆の顔をみて我慢できなくなってしまったのです。
 そののち、人から盲腸でも、肺炎でも白血球は増加すると聞き安心しました。孫もこんどのお医者が良かったのか、日に日に元気を取りもどし、4月には無事小学校へ入学することができました。痩せっぽちの佳子ちゃんには、新しいカバンが大きすぎ、
「カバンが歩いているようだね」
と近所の人たちにからかわれたりしています。一般の人から見たら、「ただの風邪くらいで大げさに」と言われるようなことでも、今までこんなにくるしんで来ました。原爆にあっていなかったらこんな思いはしません。あのときの体験が体にしみついております。まして、放射能の影響だといわれるわたしの病気が、子供にまで続くのか?といつも心を痛めながら今日まで生きてきました。また私のこの心配している事が子供に知られるのが恐ろしくて、今まで一度も口にしたことはありません。
 忘れもしません。初孫が生まれたのが、昭和52年5月21日未明でした。薄ぐらい産院の廊下で、かたい椅子に嫁のお母さんと私は不安をかくしながら何時間もだまって待ちました。2人とも被爆しております。普通の人にでも我が子の出産は不安なものでしょう。でも、今のわたしたちにはもっと大きな不安が重なっています。
 それはそれは、苦痛な数時間でした。わたしはとうとうたまりかねて、
「満ち潮を見てきます」
と産院を飛び出し、一気に川土手まで走りました。少し明るくなりかけた空に向かって、
「お父さん、助けて!」
とわたしは手を合わせました。そうしたら少し気が楽になったのを覚えています。
 以前の原爆病院長、重藤先生が、「被爆二世の問題はいまだに解決していない。しかし影響はないから安心せよ、とうそをいってすませる問題ではない」と書いておられました、また今年の6月1日、中国新聞にABCC(放射線影響研究所)が
「被爆二世追跡研究の将来構想図固まる(当時からの被爆者寿命調査に加え)今後は遺伝研究や被爆線量の見直しなどに力点を置く案を固めた」
この記事を読み、やはり私たちがいつも懸念している遺伝の研究が必要なことを再確認しました。それから数日後、NHKの朝のテレビニュースで
「被爆した人から抜いた歯で、ヒバク線量測定に成功した。距離数もわかります」
と言っているのをきいて、そんなことも今まで調べられていなかったのかと腹立たしくおもいました。
 戦後40年近くたった現在でも、こんなおもいをしているのが被爆者です。子育てにいそがしい若いパパやママに私たちの二の舞をしないよう、現実をしっかり見つめる勇気と努力をしてほしいと、いつもねがっております。
(1984.6.28)

※漢字表記等、一部読みやすいように修正させていただいております。

原爆後の私  其の1 [原爆後の私]

終戦の日が近づいていますね。
(メインブログ「ゆうきリンリン…」で'12.8.12に投稿)
山下会誌 「あさ 18号」には沢山の原稿や
読まれた方々からのお手紙が、120ページ近く記載されています。
ここで紹介するのも、草の根運動になるのかしら?
まだ『傷あと』しかご紹介できていないので
できる範囲で頑張ってみようと思います。



原爆後のわたし
橋本 幸子 58才(昭和59年時点)

 「あっ、おとうちゃん、げんばくドームだ、にっぽんとアメリカがせんそうして、アメリカがゲンバクをおとしたんよ。おとうちゃん、しっとる?」
 6歳の孫が大きな声で車の運転をしている父親に話しかけました。不機嫌そうに押しだまったままの息子の顔を見て私は首をすくめました。あれは去年でしたか、電車で相生橋にさしかかったとき、当時、5歳と6歳になる孫が原爆ドームを指さして、
「あれはなに、どうしたん、おばあちゃん、おしえて」
と聞きました。まだ小さい子供だからとおもったのですが戦争でアメリカが原爆をおとし日本が負けたことをおしえました。それからというものは相生橋を通るたびに、
 「原爆ドームだ」
 「原爆ドームだ」
と大きな声で叫びます。そのあとで必ず、
「アメリカが落としたんよね。」
とわたしの顔をみて言います。バスに乗っていようと電車に乗っていようと必ず大きな声で言います。今ごろはそのあと、いろいろの質問がとんできます。
 「どうしてにっぽんはアメリカとせんそうしたん?」
 「どうしてにっぽんはまけたん?」
 「ゲンバクがおちて、ヒロシマはどうなったん?」
 「どうしておばあちゃん、しななんだんね。」
 「やけるまえのヒロシマは、どうようなかったん?」
 「このへんにこどもはおったん?」
 「わたしんちもやけたん?」
2人が競争して「どうして」「どうして」の連発で際限がありません。先日、やはり電車のなかで
 「ゲンバクってどんなかたちをしとったん?」
 「どのくらいのおもさなの。」
 「え、おしえて」
意地わるく大きな声でわたしにせまります。座席の人たちの目が一斉にわたしに集まりました。曖昧なことはいえず、
 「おばあちゃんも、わからないからこんどしらべとくね」
この様に勉強不足のわたしを困らせる孫たちですが、わたしの一言で戦争のことに関心をもってくれたことがうれしく、この子たちがわかるような原爆のおはなしの本が目につくと買ってきます。そして2、3日後、
 「このあいだ、おばあちゃんが買ってあげた本、よんだ」
と子供に聞きますと、
 「おとうちゃん、あの本、きらいだって、よんでくれないの」
不足そうにわたしに告げます。
 「じぶんでよんだら。よしこちゃんだったらよめるよ。1ねんせいだものね」
それから2、3日して
 「おばあちゃんがかってくれた『ルミちゃんの赤いリボン』よんだよ。よしこはリボンが頭につけられるからいいね。おじさんもいなくなられたってどういうこと」
 とききます。よしこはとてもリボンが好きで、いつも頭にリボンをつけています。
ルミちゃんが、おじさんと一緒に、8月6日に広島へ出かけたまま帰らないお母さんをさがしに行っただけなのに、原爆症で髪が抜けてしまい、お母さんに作ってもらったリボンが頭につけられなくなったことが特にかわいそうだったようです。また、おじさんがなくなられたと書かれている意味が解せなかったようです。
 それにしても、私は親でも無いのに、また出過ぎたことをしてしまって、と複雑な気持ちになり自分のしたことを後悔します。でも少し気分が落着くと、私は自分自身が被爆者であるということに思い当たります。「戦後39年もたつのに」とよく言われますけれど、原爆にあったわたしたちの苦しみはいまだに続いております。39年たっても少しも苦しみが少なくなったと感じた日はありません。あの太平洋戦争が実は日本軍の侵略戦争であったと今更教わっても、すぐには信じることが出来ませんでした。国を信じて私たちはいろいろな困難に耐えました。毎日、「バンザイ」「バンザイ」と死出の旅に立つ兵士を見送りました。特にわたしたち若い女性の見送りが兵隊さんの励ましになるからと、遠方の家まで出掛けたものです。他方では色々と、悲劇が生まれていることも無視して…
 またわたしの勤めていた軍需工場でもお上からの命令で毎日、兵器の増産にと追いたてられ、歯を食いしばってガンバリました。配給がすくなくいつも空腹をがまんして働きました。わたしたちが空腹を我慢した分だけ外地に行っている兵隊さんが少しでも助かると、不平も言わないでただお国のため励まし合いました。「欲しがりません勝つまでは」を合い言葉に。また、戦争末期には広島も空襲警報が頻繁に発令されるようになりました。でもなぜか広島は素通りです。その度に
 「広島は良いところじゃね、敵さんも広島には七つの川があるけぇ爆弾を落としても効果の無いことを知っとるんよね」
と言い合っておりました。
 ところが昭和20年8月6日、たった一発の原子爆弾で広島は壊滅してしまったのです。炸裂した爆弾は20万人もの人々を殺しました。その人たちのなかには日ごろ、わたしたちが自慢していた川に助けを求めたため死んだ人も多くいます。また親戚や知人を捜すためヒロシマに入り、残留放射能におかされ、亡くなった人達もたくさん出ました。
 私は7日の朝、早く地御前の勤務先を出て、舟入の自宅(爆心地から2.2キロメートル)にむかいました。昨日の朝出勤したときの様子は全くありませんでした。昨日の朝は父が一人家に居た筈です。どこがどうだかわからないような瓦礫の中をとにかく父を探して歩きまわりました。夕方近くなって、江波小学校にねかされていた父を見つけることが出来ました。体中にガラスの破片が突きささり、目も鼻も口も血のりでコチコチになり、男女の区別も付かない状態でした。父のほうから私の名を呼んだから分かったのです。目が見えないから、人影や足おとがするたびに私の名を呼んでいたと言います。あのとき、地の底の方から呻くように「幸子じゃないか」といった弱々しい父の声を思い出すといまでも涙がにじみます。
 その夜は学校の廊下の板の間で一睡もしませんでした。教室の中もまわりの廊下も沢山の人達が座ったり寝ころんだりして居ました。
 その人たちの泣き声と呻き声の入りまじった、今おもいだしてもぞーっとする様な一夜でした。だんだんと夜が明けるに従って、まわりも静かになったと思い、あたりをみまわし、びっくりしました。先程まで「水を呉れー」とか「痛いよー」と云っていた人たちが殆ど死んでいるのです。父が、「水が飲みたい」と云うので死んでいる人たちをまたいで行きかけましたが、水飲み場には何人もの折り重なった死体があるので引き返しました。
 私はこうしていては父も死んでしまうとおもい、勤め先の地御前に連れて行こうとひき返しました。そして会社の車でむかえに行ったら、父の姿はありません。伝言板に「父をつれて帰る。幸子も田舎へ帰れ。」と書いてありました。母の兄が瀬野からきてくれたのです。しかし私は、会社の診療所でみた沢山の怪我をした人や、病人をみすてては、田舎に帰れませんでした。

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