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焼跡から生きぬいてきた私 其の1 [焼跡から生きぬいてきた私]

焼跡から生きぬいてきた私
隆杉 京子  68才(昭和59年当時)

 昭和19年5月13日主人に召集令状が来ました。5月20日5師団師令部第2部隊3中隊に入隊しました。近所の浅井さんが5師団に勤めておられたのです。4日目の夜あす面会が出来ますとしらせて下さいました。
 主人のすきな物をくめんして行きました。門を入ると浅井さんが出てこられて親子6人に1室をあたえてもらい、楽しい時間を過ごすことが出来ました。
 入隊から6日目の朝、浅井さんがよられて
「今晩たたれるから、夕方早めに出て行ってみなさい」
と言われました。夕方早めに、だれにも言わずに義母と子供を連れて西練兵場についた時にはもう兵隊さんは2部隊の門の所を出発しておられるのです。
 西練兵場はぬかるみでした。いそいで行かないと会えないので、どろの中もかわまずに皆な先をいそいで行きました。私達親子は門の見える所で見ていました。服装が同じなのでわかりませんでした。当時東練兵場に軍隊の専用列車がひきこんでありました。私達は東練兵場に行き日が暮れるのをまっていました。暗闇の中を汽車が静かに出て来ました。今夜が最後の別れになるかもしれん。そんな気持ちでした。
 汽車は西へ西へと長い列を作って走りました。涙がとまらず声を出して泣きました。
 四男はよくねむっていました。子供の手をひいて帰りました。義母とは話すこともなく帰りました。11月に入って義母はどうしたのか、私にはなにも言わずに家を出て行きました。
 私は小さい子供4人連れて配給所の下請けの仕事をやらなければなりません。母が今日は帰るか、と毎日待っていました。とうとう帰って来ませんでした。隣のおばさんがみかねて三男を見て下さいました。長男次男はどうしても配給を取りに行く時はいつもついて来ました。行く時は箱の中に乗せて、帰る時はリヤカーをおしてくれます。四男はおんぶして手をかけてやることが出来ないので、とうとう、わきの下がちぎれて赤身が出ているのです。
 私は石川のおばさんに話しました。見てあげるからと言って下さるので、四男をたのんでは配給に出ることが出来ました。おじさんもおばさんも孫のようにかわいがって下さいました。
 12月に軍事郵便のハガキが一枚来ました。「ご奉公している。子供をたのむ。皆な体を大切に」と簡単なものでした。私はうれしかった。それきり一度も頼りは来ませんでした。
 昭和20年
 春といってもまだ寒い朝のことでした。私の家の前が家屋疎開にかかりました。毎日年取った兵隊さんが家をこわしにこられました。次から次へと家がなくなりました。大火を防ぐためと言われていました。
 警戒警報がこれまで以上にひんぱんになりました。近所の人が「子供が小さいから一度中広の実家へ帰っては」と話して下さったのです。
 当時は毎日配給もありませんでした。ある時だけきて配給すればよいからと言われるので、5月に入って中広の実家に帰りました。川一つへだてた所ですが、まわりは広い畠で家はまばらでした。妹も「度々帰っておいでよ」と言ってくれましたが、配給が心配で帰られなかったのです。妹の主人はマニラ、実家の兄はニューギニヤ、弟は朝鮮に出征していました。実家の母が1人でいたところへ、私たち親子5人、妹も子供2人を連れて帰りましたので、生活は日増しに苦しくなりました。米の配給もなかなかありませんでした。
 子供は毎日元気で遊んでいました。妹が裏の川や山に連れて行き食べられるものを取って来ていました。
 私がとうふやオカラをもらって帰り、梅じそを小さくきざみ、まぜて代用食にしていました。オカラも配給になり毎日もらえなくなりました。


其の2に続く
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