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焼跡から生きぬいてきた私 其の3(完) [焼跡から生きぬいてきた私]

 8月15日朝早く起きて山県郡都々見という所まで行くことにしました。そこへ私の友達が疎開していたのです。私の着物なども一緒に疎開させてもらっていたのです。乗りものがないので歩いて山越えをしていきました。途中ぞうりのはなをが切れたので、農家に入り「はき古しのぞうりがあったら下さいませんか」とたのんで見たのですがだまって話もきかずに中に入ってしまわれた。田舎人はなんと薄情だな、と思いながら暑い日中を手拭いを水でぬらしては長い道をとぼとぼと行きました。都々見に着いた時はもう夕方でした。家の外から声をかけると、子供2人が出てきて私を見るなり家の中へかけ込みました。
 友達が出てきて私を見るなり「まあ」とたまげてなんにも言わずに私を見ていました。そして「あがって下さい」と言われたのですが、私の足は痛うとあげられず這うてあがりました。
 いろいろ話をすると「生きていてよかった」とよろこんでくださいました。
 ごはんをよばれてから、風呂をすすめてくださるのですが、私は自分の足がどうにもならず「少し休んでから」と言ったのですが、友達は「つかれがとれるから」とすすめて下さるのです。風呂場へいったものの湯船に入れないので、しかたなくたらいに湯を入れてもらいました。その時鏡を見て、私はわれながらに恐ろしい顔だったのに驚きました。今日ぞうりをお願いした時にげられたこと、子供が恐れて家の中に入っていったわけがわかりました。その晩友達から「今日、日本は戦争に負けたのよ。もう終わったの」と聞かされて戦争が終わったことを初めて知ったようなことでした。なんだか大きな荷物をおろした様な気がしました。翌日私はすぐ家に帰ることにしました。安古市(やすふるいち)までトラックに荷物と一緒にのせてもらうことが出来ました。
 8月16日
 中広町の土手下の川原へたくさん朝鮮人が集まって夜おそくまで酒を飲み「日本負けた」と言って夜おそくまで歌をうたい太鼓をたたいて時折かん高い声で叫ぶので、とっても恐ろしく思いました。
 その夜は身の危険を感じて赤ん坊を抱き3人の子供を膝に寄せて恐怖で一睡もできませんでした。夜明けを迎えて初めてほっとしました。恐ろしいと私の思った一夜が、今思えば朝鮮の人にはよろこびの日でした。
 長い間自由をうばわれ、人間らしいあつかいもされず、その苦しみは生き地獄のような苦しみであったと思います。日本が負けて初めて朝鮮の人は夜明けをむかえたのです。
 それから1週間位たって食品組合から、配給員の呼び出しがあったのです。いろいろと事情をはなしましたので、私は一番らくな所にまわしてもらいました。
 毎日千田町文理大(現在の広大北門)まで通いました。私は市内配給の数を見るだけでした。仕事は3時まで、日当のかわりに毎日品物をもらうのです。カンヅメ、サトウ、タクワンをもらって子供のまっている家へと急ぎました。米の配給はありません。大豆、トウモロコシ、サトウ、時折メリケン粉がありました。それが米のかわりです。

 弟が朝鮮から復員して来ました。末の弟も帰って来ました。姉と妹の主人も復員しそれぞれ帰って行きました。私達は親子5人で実家のとなりの空地に住むことにしました。毎日たくさんの人が復員されます。市民に配給する品物も少なくなりました。私が持って帰るだけでは生活がしにくくなりましたので、自分で商売をすることを考えました。その頃天満橋の川土手にぽつぽつ店が出始めたのです。人通りも多いので、私もここで商売をすることにしました。ムシロ一枚しいて野菜を少し列べて座ったもののはずかしいので、手拭をふかくかむって座っていました。夕方までに野菜は皆な売れました。ムシロをこわきにかかえて帰りました。今日のもうけは2円50銭でした。うれしくって、私はあす売る品物をさがしに行き、家に帰ったのは8時頃でした。帰りに朝鮮あめを買って帰りました。親ゆび位のが1銭でした。子供が皆おきて私の帰りをまっていました。
 3日位は手拭いをふかくかむっていましたが、こんなことではと思って少しあさくかむってすわっていますと時折知った人が声をかけて下さり、品物も買ってもらいました。毎日きまって買いに来て下さる人も出来ました。主人の友達が品物を持って来て下さるので、これでまたもうけさしてもらいました。今迄見たこともない様な品物が露天に出てくるようになりました。おそくまで商売をしていますと、やくざ風の人がいんねんをつけたりしますので私は夕方早めに帰るようにしていました。
 秋風が吹き始めました。4人の子供がうずくまってねている姿を見ては、主人に「どうぞ生きていて下さい」と祈る気持でした。
 昭和21年2月に入って、爆風で倒れた家を5円で買いました。朝早く起きて整理に行き、夕方農家で大八車を借りてはこぶのです。子供はこわれていないカワラを集めておくのです。私は近所の大工さんにたのんだ所1週間位で家が出来ました。電気もひきました。ムシロも敷きました。我が家も時々笑い声がするようになりました。
 毎日復員する人で貨物列車は黒山の人でした。中支より復員された人に聞きますと「もうほとんど帰ったでしょう」と言われるのです。
 21年4月、次男が三篠小学校へ入学しました。わらぞうりをはき、袋をさげて行きました。1年生は全部で20人足らずだったと思います。一目でもよいから、主人に子供の元気な姿を見せてあげたいと思いました。
 22年6月よく晴れた日でした。私はいつものように大八車をひいて商売に出ました。
 吉本のおじさんが「お父さんが帰ってこられたから、すぐ来て下さい」と云うてこられました。「くわしいことはよくわからないので早く十日市に行って見なさい」とのことでした。私はおじさんに店をたのんで十日市にいる義母のところへいそぎました。私は道々人目もかまわず泣きながら走りました。無事な主人の顔を見るまでは心配でした。中広の家に帰り、子供を連れて義母のいる十日市に行きました。お互いに顔を見ても言葉も出ず、涙がほほをつたうだけでした。主人は、栄養失調で担架で送り帰されていたのです。
「今日病院から初めてここまで来た」
と言いました。
 私達親子5人無事でいることを知り安心したのです。骨と皮になり見るかげもない主人でしたが、とにかく生きて帰ってくれたことが私は嬉しかった。
 4人の子供が「あれはだれね」ときくのです。「お父ちゃんよ」と言うとじっとみていましたが長男だけが小さな声で「お父ちゃん」と言ってくれました。しばらくして次男が「お父ちゃん」と言ってくれました。三男はじっと見ていました。しばらくして思い出したのでしょうか、小さな声で「お父ちゃん」と言いました。四男は私にしがみついて見ようともしません。三人が近寄って、あたまをなぜてもらいました。
 それからは家での看護が大変でした。栄養失調は一度に多く食べさすと死ぬると、きかされました。食べたがるのを少ししか食べさせてくれないので主人は怒るのです。でもがまんして早くよくなってもらいたい思いで、なんぼう怒られても私はがまんしました。
 妹が「米はどうしているか」と心配して来てくれ、5合ばかし持って来てくれました。「着物を出せば米でも麦でもかえてもらえるのよ」と言います。私は着物1枚出して、「米とかえてきて」とたのみました。
 商売もあまり休むわけにも行かないのでまた出ました。8月畠の中でヤミの野菜を仕入れていたら警察につかまって西警察に連れて行かれ、夕方まで取り調べをうけました。どんなに話してもゆるしてくれませんでした。「主人が戦地から栄養失調で6月に復員してまだ休んでいます。子供が4人いますし食べていかなければなりませんので、悪いとは思いましたが買いに行きました。どうか今日の所はこらえて下さい。もう買いに行きません」と言いました。となりに座っておられた50才位の人が「気の毒に、今日は返してあげたら」と警察の人にとりなしてくれました。でも、すぐには帰してくれません。私は家のことが気になるし、おどおどするばかりで何を云われても、もう耳に入りませんでした。夕方おそくやっと帰してもらいました。
 家に帰っても取り調べをした男の顔が目の前にうかんで、おそろしくてたまりませんでした。人が戸をあけて顔を出すとその男の顔に見えました。それから2ヶ月位して検察庁から呼び出しが来ました。私はよばれたので中に入ると、調書を読んでおられました。「あなたは気の毒に、ご主人をだいじにして上げなさい」と言われたので、私はびっくりしました。「あなたも子供さんが多いから大変ですね。早く帰って上げなさい」と言われたので、私はうれしくて、「ありがとうございます」と言って外に出ました。身も心も晴々してまるで雲の上にでものっているような心地でした。
 私が帰ると、主人もよろこんでくれました。当時はヤミをしないと生活が出来なかったのです。それからも、少しずつでも仕入れては売りました。時々私はまた着物を売って金にしました。
 主人は大分元気になりました。ぽつぽつと十日市の焼跡のせいりに子供を連れて通うようになりました。そのうち家が建ちそこで商売も出来るようになりました。少しまとまったお金を作るために残しておいた着物、帯を風呂敷につつんで、大芝の姉の所に行く途中橋の上で、これが私の着物の最後だと思うと涙が出てとまりませんでした。
 姉の所でたのむと気持ちよくひきうけてくれました。近所の朝鮮の人が値をよく買って下さったのです。母にも貸してもらい、なんとか十日市に店を出すことができました。

 四男がお父さんをきらって、私に
「おじさんいつ帰ってんね(帰られるの)」と言うのです。むりもない生まれて2ヶ月で別れていたのですから、顔など知るわけがない、私は四男がふびんでだきしめてやりました。主人もあまりかわいがりませんでした。子供に、
「敏ちゃんのお父ちゃんなのよ」
と言っても、四男は
「お父ちゃんないよ」
と父親であることを信じません。
 こうした親と子の心のかよいあわない生活でした。こんなことにも私はつらい思いをあじわいました。

 戦争や原爆によって私のような思いをした人は、たくさんおられたと思います。
 今からの人には、私達の体験と苦しみをくり返してはならないと心から願っています。
 平和な人間らしい生活ができるように、私は年をとりましたが、皆さんと一緒にがんばります。

焼跡から生きぬいてきた私  完

焼跡から生きぬいてきた私 其の2 [焼跡から生きぬいてきた私]

 昭和20年8月6日の朝です。よく晴れていました。朝5時に起きて朝の仕度をはじめると妹が起きてきました。米が3合ありましたのでおかゆにたくのです。出来たら水を入れ、また水を足しながら煮るのです。前の日に子供を連れて取って来た野草を小さくきざみ量をふやすのです。当時は塩がないので梅じそを小さくきざみそれをつけて食べました。
 私はリヤカーを出し箱を積み、配給を取りに行く日でしたので、仕たくをすませて家に入ると警戒警報が解除になったのです。私は主人の厚司で上衣とモンペをぬっていました。ぶ厚い布なので少々のことでやぶれるような布ではありません。上衣を2枚、モンペ2枚足袋をはき地下足袋をはいていました。汗が流れるので頭を手拭でくくり、その上から綿入れの防空頭巾をかぶり、手袋をしていました。リヤカーのついた自転車に乗って当時、広島県立第2中学校、現在の観音小学校のところにさしかかりました。そこには大きなポプラの木が並び道路に面した所だけ家がありました。裏の方は皆畠でした。其の時ゴオーというものすごい大きな音がしたので、ふりむくと、まるでうす茶色の山のようなものがおおいかぶさって来ましたので、すぐ前にむきましたが、そのまま私はどうなったのかわかりません。気がついた時はもう夕方でした。
 福島川の観音町よりの土手に、かきがらがたくさん積んでありました。私はそこにいました。起きようとして顔に手をあてると、右のほほがこんにゃくのような感じで腫れあがっているのです。目じりも少し切れていました。左の手のひじも切れていました。だれかが手拭で腕をしばってくれていました。まわりの人もみんなばけものの様でした。片袖がなくなっていました。太陽が西の山に沈みかけていました。
 私はほほを両手でおさえて立ちました。
 私は夢遊病者のように歩きはじめました。早く家に帰りたいと思い福島川に下りました。川砂の上の人は皆んなふさったり、あおむけになったりしておられました。その時川原でねている子供を見て自分にかえりました。どのようにして家までたどりついたのかおぼえていません。日が暮れても帰ってこないので母や妹が心配したそうです。
 私が家の前まで帰った時、近所の人が妹にしらせて下さったのですが、一寸見てちがうようなので帰りかけて、もう一どよく見ると厚司布なので私だということがわかりました。妹はすぐ私を連れて畠の中にねかしました。
 実家はもう焼け落ちていました。井戸水で妹は顔を冷やしてくれたそうです。子供はおそれて私のそばにはよりつかなかったと言っていました。
 住むところもないので畑の中で三日三晩野宿をしました。5日目、母が「どうでも玖村の方へ向いて逃げよう」と言うのです。
 子供をつれて歩いていたものの、道はなし、橋はなし、泣く子の手をひいて玖村にやっと着きました。たよっていった先はお寺で親戚でした。他の家族もおられるし、こちらは子供がたくさんいるので、気がねでした。
 戸河内へ疎開していた姉が米2升持ってきてくれました。
 その日四男が血便を出したので、私はおどろきました。四男は初めは泣いていましたがしだいに静かになって眠るばかりです。私は夕方太田川のほとりに連れていきました。
 この子はもうだめなのだろうか、なんとか生きていてほしい「もしもこの子が死んだらせめて私の手で焼いて葬ってやりたい」と泣きながら川のほとりを半気違いのように暗くなるまで歩いていました。泣く泣くお寺に帰る道で、近所の人に出合いました。その家の子供さんが死なれて、いらなくなった注射を私に下さるというので、その人の家についていきました。そこの男の人が四男に注射をして下さいました。
 血便はまだ出ていましたが、朝になってみると目をあけてキョロキョロしています。「助かった」と思い私はうれしくて何かお礼を、と思いましたがなんにもないので口のお礼だけでもと思い、子供を抱いてお礼にいきました。「こんなにいいのなら」と言って1本のこっていた注射をまた打って下さいました。
 それから近所の人が「市外に出ている人は早く広島市内に帰らないと配給がもらえなくなります。」と言ってこられたので一晩泊まっただけで又母と妹と子供を連れて中広へ帰って来ました。住むところもないし焼野原です。風呂場に焼のこりの柱をさしかけて焼トタンを上において寝る所を作りました。その晩大風が吹いて朝明るくなって見ると、トタンが風にとばされてなくなっていました。子供を起こして、「早く拾い集めないと人に拾っていかれる」と言って集めさせました。


其の3(完)に続く

焼跡から生きぬいてきた私 其の1 [焼跡から生きぬいてきた私]

焼跡から生きぬいてきた私
隆杉 京子  68才(昭和59年当時)

 昭和19年5月13日主人に召集令状が来ました。5月20日5師団師令部第2部隊3中隊に入隊しました。近所の浅井さんが5師団に勤めておられたのです。4日目の夜あす面会が出来ますとしらせて下さいました。
 主人のすきな物をくめんして行きました。門を入ると浅井さんが出てこられて親子6人に1室をあたえてもらい、楽しい時間を過ごすことが出来ました。
 入隊から6日目の朝、浅井さんがよられて
「今晩たたれるから、夕方早めに出て行ってみなさい」
と言われました。夕方早めに、だれにも言わずに義母と子供を連れて西練兵場についた時にはもう兵隊さんは2部隊の門の所を出発しておられるのです。
 西練兵場はぬかるみでした。いそいで行かないと会えないので、どろの中もかわまずに皆な先をいそいで行きました。私達親子は門の見える所で見ていました。服装が同じなのでわかりませんでした。当時東練兵場に軍隊の専用列車がひきこんでありました。私達は東練兵場に行き日が暮れるのをまっていました。暗闇の中を汽車が静かに出て来ました。今夜が最後の別れになるかもしれん。そんな気持ちでした。
 汽車は西へ西へと長い列を作って走りました。涙がとまらず声を出して泣きました。
 四男はよくねむっていました。子供の手をひいて帰りました。義母とは話すこともなく帰りました。11月に入って義母はどうしたのか、私にはなにも言わずに家を出て行きました。
 私は小さい子供4人連れて配給所の下請けの仕事をやらなければなりません。母が今日は帰るか、と毎日待っていました。とうとう帰って来ませんでした。隣のおばさんがみかねて三男を見て下さいました。長男次男はどうしても配給を取りに行く時はいつもついて来ました。行く時は箱の中に乗せて、帰る時はリヤカーをおしてくれます。四男はおんぶして手をかけてやることが出来ないので、とうとう、わきの下がちぎれて赤身が出ているのです。
 私は石川のおばさんに話しました。見てあげるからと言って下さるので、四男をたのんでは配給に出ることが出来ました。おじさんもおばさんも孫のようにかわいがって下さいました。
 12月に軍事郵便のハガキが一枚来ました。「ご奉公している。子供をたのむ。皆な体を大切に」と簡単なものでした。私はうれしかった。それきり一度も頼りは来ませんでした。
 昭和20年
 春といってもまだ寒い朝のことでした。私の家の前が家屋疎開にかかりました。毎日年取った兵隊さんが家をこわしにこられました。次から次へと家がなくなりました。大火を防ぐためと言われていました。
 警戒警報がこれまで以上にひんぱんになりました。近所の人が「子供が小さいから一度中広の実家へ帰っては」と話して下さったのです。
 当時は毎日配給もありませんでした。ある時だけきて配給すればよいからと言われるので、5月に入って中広の実家に帰りました。川一つへだてた所ですが、まわりは広い畠で家はまばらでした。妹も「度々帰っておいでよ」と言ってくれましたが、配給が心配で帰られなかったのです。妹の主人はマニラ、実家の兄はニューギニヤ、弟は朝鮮に出征していました。実家の母が1人でいたところへ、私たち親子5人、妹も子供2人を連れて帰りましたので、生活は日増しに苦しくなりました。米の配給もなかなかありませんでした。
 子供は毎日元気で遊んでいました。妹が裏の川や山に連れて行き食べられるものを取って来ていました。
 私がとうふやオカラをもらって帰り、梅じそを小さくきざみ、まぜて代用食にしていました。オカラも配給になり毎日もらえなくなりました。


其の2に続く
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