SSブログ

原爆で消えた姉へ 其の1 [原爆で消えた姉へ]

原爆で消えた姉へ
山本 美都子  64才(昭和59年当時)

 お姉さん
 お姉さんがいってしまった8月6日、誰にも別れを告げないで行ってしまった8月6日、その日がまためぐってきます。あれから39年がたちました。夢中ですごした39年でした。「おぎゃあ」と生まれた赤ん坊でさえ、分別ざかりの年になっている歳月の重みなのに、私には「あっ」という間にすぎてしまったような気がします。私はこの頃になってしきりに昔のことが思い出されてなりません。それは私が年寄りの仲間に入って、昔話をなつかしむ年令になったということなのでしょうか…
 昭和20年の8月6日、あのとき、お父さんは62才、焼けあとから骨になって出てきました。お姉さんは29才、いまだに行方不明のままです。私は25才でした。

 お姉さんがチチハル(中国東北部)から広島へ生後間もない史彦を抱いて帰ってきたのは、昭和16年の秋でしたね。軍人だった義兄さんの所属部隊が撤収になり、行き先は家族にも秘密だったが、支給された服装は夏の物だったので南方だとわかった、と、その時の様子をお姉さんは話していましたね。そして留守家族に対して全員引揚げ命令が下されて、あなたは十日市町の実家で両親と一緒に暮らすことになりました。そして切手、たばこ、菓子、喫茶をしていたお店を手伝いながら、史彦を育てました。それから3年あまりのあいだに、統制、配給などと世相も変わり、商品のたばこ、お菓子類も例にもれず、コーヒーも不自由になりました。でもコーヒーだけはどうしても確保しなければと、生の豆を貨車単位で買いつけたこともありました。そうして店の主導権はお父さんからお姉さんへと自然に移ってゆきましたね。あなたは「あねご」肌で人の面倒見のよさのため、毎日たくさんの人の出入りがありました。生一本な性格は子供の頃とすこしも変わっていませんでした。私にはこわくもあり、また頼もしい存在でもありました。
 子供の頃には二人でよく天神町のお祖母さんのところへお使いに行きましたね。子供の足でかなり遠いように思いました。十日市から相生橋を渡り、慈仙寺の鼻を通って中島へ入り、本通りに出ました。狭い道に家が密集していて、どの家を覗いてみても人の顔があったような気がします。本通りをよぎって、また狭い道に入ります。両側にお店屋さんが並び、その中程にロシヤパン屋さんができました。
 私はロシヤ人夫婦が珍しくて立ちどまってよく見ていましたっけ。突きあたりは洋画専門の世界館でした。看板やスチール写真をみて、ややこしい外国の俳優の名前を、お姉さんが知っているので、えらいなァと思いました。あれはきっと兄さんや大きい姉さん達の話のうけうりだったのでは?……と思います。
 帰り道も賑やかな通りなので、ちっとも退屈しませんでした。お祖母さんにもらったお駄賃で、ロシヤパンを買うのが楽しみでした。
 中島、慈仙寺の鼻も夕方になると街灯にあかりがともり、料理屋さんの門口には打ち水がしてあり、川に浮かんでいる「かき舟」の提灯にもあかりが入っていました。
 いまはもうこの一帯は平和公園の中にすっぽりと入ってしまいました。変わらないのは二つの川筋だけです。
 暑い夏の夜、満潮のときなどにはよくボートに乗りましたね。兄妹4人がかわるがわるボートを漕ぎました。オールの滴が頬にとんできたとたわむれたり、川水に手をつけたり、また見あげると大空に無数の星が輝いていました。
 そうそ、思い出しました。こんなこともありましたね、近所の若い衆が
「三番櫓から飛び込めるかい?」
と言いましたら、水泳に自身のあるお姉さんは、そくざに
「平気!」
と答えました。私はびっくりしました。三番櫓というのは、その頃は相生橋と平行して電車専用の鉄橋がかかっていました。その東から三番目の橋げたのことです。そこは特別に深く、水の色も碧黒く澱んでいて、人が溺れたりして、水泳禁止になっていて、みんなこわがっている所です。あなたは市女(広島市高等女学校)の水泳の1級である証拠の黒い鉢巻をしめて、見事に飛び込みました。ただし、あとでお父さんに知れて大目玉を頂だいいしましたね。あの頃の私たちはのびのびとよく遊んでいましたね。夏休みになると待ちかねて、宮島の伯母さんのところへ泊まりに行きました。そして毎日長浜海水浴場へ泳ぎに行きました。稲荷町や、榎町、堺町、左官町のいとこ達もかわるがわる泊まりに来ました。とても賑やかで楽しかった。みんなは2,3日で帰って行くのに、私は1ヶ月近くもいました。そして主のような顔をして、はばをきかせたものでした。あのときのいとこ達も、あの8月6日を境に殆ど亡くなりました。いま広島市内に残っているのは私ただ1人になりました。
 この頃から少したった頃でしたね、東京音頭が流行ったのは。そしてレコードが飛ぶように売れたそうです。島の娘を唄って有名になった小唄勝太郎姐さんと三島一声が吹きこんでいました。のちに戦時中になると「島の娘」の歌詞のなかで「……娘16 恋ごころ」というところが「娘16 紅だすき」と変えられたりして、どうもぴんときませんでした。
 東京音頭のことでは忘れられないことがあります。左官町の叔母さんに踊りを習いに、毎晩熱心に通いましたね。私はいつもお姉さんの子分でしたが踊りは
「美都ちゃんが上手」
と言われて有頂天になって踊りまくりました。
「はァー 踊り踊るなら ちょいと
  東京音頭 よいよい………」
についで「大阪音頭」も出ました。私たちは遠く廿日市の叔母さんのところへまで押しかけてみんなを集めて大きな輪になって踊りました。いつもまじめな顔をして澄ましているおばさんたちも、結構楽しそうでした。踊りは夜おそくまでつづきました。あげくに私は夜中に大熱がでて、お医者さんをよぶやら、お母さんがとんでくるやらで大騒動をしました。
 今思うのですが、こんなに国民が熱狂的に何かに憑かれたように踊りまくっているとき、その裏では着々と侵略への工作が仕組まれていったのですね。心すべきことですね。私は子供だったのでよく解りませんでしたが、大人たちはどうだったのでしょうか?
 私が小学校3年生のころだったと思います。
 洋服屋の左官町の叔父さんが、夜ふらりとやってきて、
「不景気じゃのう……」
と言われたのを子供心にも暗い気持ちできいたことを覚えています。そしてさっきの踊りの渦はこれから2年くらいたっておこったものでした。

其の2に続く
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

いしぶみ原爆で消えた姉へ 其の2 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。