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傷あと-私と家族の被爆記- 其の5(完) [傷あと-私と家族の被爆記]
原爆投下は、一体どういう意味をもつのでしょう。戦争を早く終えるため? ソ連に対してアメリカが優位に立つため? それらについては いろいろ言われていますが、一番大きな目的は、建物の破壊力を知るため、人体への影響を知るためだったのではないか、と思われます。アメリカから 「十フィート運動」で返還されたフィルムを見るとよくわかるのです。
そう言えば、広島は、原爆が投下されるまであまり空襲はありませんでした。警戒警報が発令されても爆弾は落とされませんでした。だから、母はたくさんの子どもをつれているのですから、サイレンが鳴っても 防空壕へ逃げこむこともしなくなり、夜など、自分だけ起きていて、子どもを起こしたりはしておりませんでした。警戒警報のサイレンで私が目をさますと、よく母は、一人で子どもの布団のそばに座って、子ども達の寝顔を見ていました。だから、8月6日の朝も、警戒警報が解除されると、当然安心をして、日常の生活にもどっていたのです。原爆投下の目的を遂行するためには、人々が日常的な平素の生活をしていることが、必要だったのかも知れません。
だから、アメリカは原爆投下後の広島・長崎をくまなく写真に撮り、人体に関する影響も、ABCCをつくり、そこで強制的に調査し、悪いところがあっても、治療などしないで、その状態を観察し続けたのでしょう。
私は一度だけ、ABCCに行ったことがあります。何度も 何度も、ABCCに来るように言われてはおりました。何故かいきたくなかったのです。人の話は、「おいしいあめをもらった」とか 「行くと全部着がえさせられた」とか 「すごい機械があった」とか、 「血をたくさんとれらた」とか、 「モルモットにはなりたくない」などいろいろでした。その話は 私にとって、ABCCに行くことの不安と同時に興味を持たせるものでした。
とうとう高校二年生の時に、ABCCに行くことを承諾しました。学校までジープで迎えに来て、私はそれに乗りました。
『アメリカの調査施設に自分を投げ出すのか? いや、すばらしい治療法を見つけるための調査に自分を出すのだ。あのよくわからない、勝手に入れない、ABCCへ行って自分の目で見るのだ』などと 心の中で自問自答して 勇気づけながら、建物の中へ入ったのです。
ABCCの中は、ほとんどが日本人なのでびっくりしました。所々に、外国人がいますが思ったより少ないのでホッとしました。予想どうり着がえさせられて、レントゲン心電図など、いろいろな検査をしました。幼少の頃から心臓が悪かったのですが、心電図をとったのは その時はじめてだったのです。ABCCの医師は、「何か運動はしますか?」と尋ねました。その頃テニス部に入部していましたので、「テニスをします」と答えたら、「試合は最後まで続けてできますか?」と聞かれました。「それはできます」と答えましたら、「そうですか」といいました。その話を聞いて、『自分の心臓はあまりよくないのだな、試合ができなくても仕方ない位なのかな』と思ったのです。しかし 検査の結果についての報告は、うけた記憶がありません。もう二度と、どんなことがあっても行くまいと思ったことは覚えています。
もうABCCのことなど忘れていた時、息子が中学生の頃だったでしょうか。息子あてに一通の封書が来ました。その内容は、調査に応じてほしいというものでした。丁度、子どもの方も、被爆二世であることで自分にどれ位の原爆の影響があるのか、よく出る鼻血はどうしたのか、などとひそかに悩んでいたようです。それで、その調査に応じて自分の体のことを知りたいと思っていたのかも知れません。「検査をしてもらおう」と私に言いました。私はABCCの状態などを考えて、もし 息子の体に不安を持つような自覚症状がすでにあるのなら、それを明らかにしなければいけないし、治療もしなくてはいけない と思い、病院へつれて行くことにしたのです。結果は、心配はないということで、私も何かホッとしました。
ABCCは、50年間の期限つきで調査活動に入ったということです。50年と云えば、被爆した本人、その子ども、場合によってはその次の世代まで調査することができるのです。二代~三代にかけて調査すれば、放射能の影響がどのように推移していくかが、わかるはずです。原水爆の破壊力の実験は、実際の都市に投下しなくてもできるわけですが、人体にどのように影響するかを調べることはいわゆる原水爆実験ではできません。今まで、地球上で、広島・長崎・ビキニ環礁が、人体への影響を知る上で、大切な資料になっているのです。人体への影響の推移を知るということで見ていきますと、治療などする必要はなく、逆に治療しないままで見る方が、より正確なデータが出るというのは少し考えすぎでしょうか。人間のより一層のしあわせのためにABCCの資料が利用されるというのなら、そのために、資料として自分の体を提供するということも意味があるでしょう。しかし、そうではなく、新しい核兵器開発のために、その資料が利用されるとしたら、我々被害者は、そのことをどう受けとめればよいのでしょう。
被爆の問題は、39年前の出来事ではなくて、今も続いている問題、いや 以前よりもっと大変なことになりつつあるのです。
力の均衡の名のもとに、多くの国々で行われている際限のない核兵器開発競争の現実を見て、我々被爆者は、だれに、どのように、自分たちの病気の苦しみや、つらさを訴えればよいのでしょう。被爆者や、多くの一般の市民は、安心して生活できる場を求めているのです。
核兵器は、人間の手と知恵でつくられたのです。だから、人間の手と知恵で、なくすることはできるはずです。そのためには、人間の上に落とされた二個の核兵器のむごさがどんなものかを知るためにも、わたし達被爆者は話しつづけ、書きつづけなければいけないと思います。そして、平和を願っている多くの人達と力を合わせれば、きっと核兵器のない時代を迎えることが出来ると思います。
傷あと-私と家族の被爆記- 完
そう言えば、広島は、原爆が投下されるまであまり空襲はありませんでした。警戒警報が発令されても爆弾は落とされませんでした。だから、母はたくさんの子どもをつれているのですから、サイレンが鳴っても 防空壕へ逃げこむこともしなくなり、夜など、自分だけ起きていて、子どもを起こしたりはしておりませんでした。警戒警報のサイレンで私が目をさますと、よく母は、一人で子どもの布団のそばに座って、子ども達の寝顔を見ていました。だから、8月6日の朝も、警戒警報が解除されると、当然安心をして、日常の生活にもどっていたのです。原爆投下の目的を遂行するためには、人々が日常的な平素の生活をしていることが、必要だったのかも知れません。
だから、アメリカは原爆投下後の広島・長崎をくまなく写真に撮り、人体に関する影響も、ABCCをつくり、そこで強制的に調査し、悪いところがあっても、治療などしないで、その状態を観察し続けたのでしょう。
私は一度だけ、ABCCに行ったことがあります。何度も 何度も、ABCCに来るように言われてはおりました。何故かいきたくなかったのです。人の話は、「おいしいあめをもらった」とか 「行くと全部着がえさせられた」とか 「すごい機械があった」とか、 「血をたくさんとれらた」とか、 「モルモットにはなりたくない」などいろいろでした。その話は 私にとって、ABCCに行くことの不安と同時に興味を持たせるものでした。
とうとう高校二年生の時に、ABCCに行くことを承諾しました。学校までジープで迎えに来て、私はそれに乗りました。
『アメリカの調査施設に自分を投げ出すのか? いや、すばらしい治療法を見つけるための調査に自分を出すのだ。あのよくわからない、勝手に入れない、ABCCへ行って自分の目で見るのだ』などと 心の中で自問自答して 勇気づけながら、建物の中へ入ったのです。
ABCCの中は、ほとんどが日本人なのでびっくりしました。所々に、外国人がいますが思ったより少ないのでホッとしました。予想どうり着がえさせられて、レントゲン心電図など、いろいろな検査をしました。幼少の頃から心臓が悪かったのですが、心電図をとったのは その時はじめてだったのです。ABCCの医師は、「何か運動はしますか?」と尋ねました。その頃テニス部に入部していましたので、「テニスをします」と答えたら、「試合は最後まで続けてできますか?」と聞かれました。「それはできます」と答えましたら、「そうですか」といいました。その話を聞いて、『自分の心臓はあまりよくないのだな、試合ができなくても仕方ない位なのかな』と思ったのです。しかし 検査の結果についての報告は、うけた記憶がありません。もう二度と、どんなことがあっても行くまいと思ったことは覚えています。
もうABCCのことなど忘れていた時、息子が中学生の頃だったでしょうか。息子あてに一通の封書が来ました。その内容は、調査に応じてほしいというものでした。丁度、子どもの方も、被爆二世であることで自分にどれ位の原爆の影響があるのか、よく出る鼻血はどうしたのか、などとひそかに悩んでいたようです。それで、その調査に応じて自分の体のことを知りたいと思っていたのかも知れません。「検査をしてもらおう」と私に言いました。私はABCCの状態などを考えて、もし 息子の体に不安を持つような自覚症状がすでにあるのなら、それを明らかにしなければいけないし、治療もしなくてはいけない と思い、病院へつれて行くことにしたのです。結果は、心配はないということで、私も何かホッとしました。
ABCCは、50年間の期限つきで調査活動に入ったということです。50年と云えば、被爆した本人、その子ども、場合によってはその次の世代まで調査することができるのです。二代~三代にかけて調査すれば、放射能の影響がどのように推移していくかが、わかるはずです。原水爆の破壊力の実験は、実際の都市に投下しなくてもできるわけですが、人体にどのように影響するかを調べることはいわゆる原水爆実験ではできません。今まで、地球上で、広島・長崎・ビキニ環礁が、人体への影響を知る上で、大切な資料になっているのです。人体への影響の推移を知るということで見ていきますと、治療などする必要はなく、逆に治療しないままで見る方が、より正確なデータが出るというのは少し考えすぎでしょうか。人間のより一層のしあわせのためにABCCの資料が利用されるというのなら、そのために、資料として自分の体を提供するということも意味があるでしょう。しかし、そうではなく、新しい核兵器開発のために、その資料が利用されるとしたら、我々被害者は、そのことをどう受けとめればよいのでしょう。
被爆の問題は、39年前の出来事ではなくて、今も続いている問題、いや 以前よりもっと大変なことになりつつあるのです。
力の均衡の名のもとに、多くの国々で行われている際限のない核兵器開発競争の現実を見て、我々被爆者は、だれに、どのように、自分たちの病気の苦しみや、つらさを訴えればよいのでしょう。被爆者や、多くの一般の市民は、安心して生活できる場を求めているのです。
核兵器は、人間の手と知恵でつくられたのです。だから、人間の手と知恵で、なくすることはできるはずです。そのためには、人間の上に落とされた二個の核兵器のむごさがどんなものかを知るためにも、わたし達被爆者は話しつづけ、書きつづけなければいけないと思います。そして、平和を願っている多くの人達と力を合わせれば、きっと核兵器のない時代を迎えることが出来ると思います。
傷あと-私と家族の被爆記- 完
傷あと-私と家族の被爆記- 其の4 [傷あと-私と家族の被爆記]
私は 8月6日、白い絹でつくったワンピース(姉の着物にするために白の反物を買ってありました。その布を母が子ども達の服にしてくれていたのです)を着ていました。窓の上にあがり飛行機を見ていたのですから、顔面全部と、窓を持っていた右手を火傷しました。まわりはまだ もえていなかったのですから、光線によって火傷をしたのです。うすい布でも白でしたから 体の方は火傷をしなくてすんだのです。布から出ている左の手や、二本の足はなぜ火傷をしなかったのか と考えると、窓の外には植木もあったし、ブロックの塀もあったように思います。そんなものなどが光線を遮断したのでしょう。
顔の火傷はひどく、目からはうみがいつまでも出るし、女の子ではあるしと、親たちは心配しました。そのために顔には、他のところよりたくさん薬をつけたりしたためか、わりによく治っています。しかし、手の方は、くっきりと火傷の跡が残ってしまいました。
私が 大学生の頃 父が「火傷の跡を手術するか?」と言ったことがあります。その話を素直に受けとれず、なぜそうまでしなくてはいけないのか と反発を感じました。どういう言葉で その場の反応をしたか覚えていませんが、手術の話は 何となくと切れてしまいました。こうして書きながら 父の気持ちを考えてみると、若い娘への思いやりで、おずおずと手術の話をしたのだと思います。やはり 父の心にも終戦が完全には来ていなかったのだと思えるのです。その父も本当の意味の終戦を迎えずに 昨年8月7日他界してしまいました。
私への原爆の影響は、火傷の跡を残したことだけではありません。大学生の頃から、過労になると、股(もも)の部分に、打ったわけでもないのに、指でおさえた位のうすい青い点が出るようになったのです。それは 私の体調を知るバロメーターのようなものになっています。それが出た時には、これはいけないな、と少し注意をして生活をしていますと、消えていきます。自分で、『ああ、少し疲れたな。少し休まなければいけないぞ。』と思っている時に出てくれると、『そうだろう。疲れているからな。』と思いますが、自分でその自覚がない時に出る場合は、少々がっくりするのです。
病院で、そのことを尋ねて、みても、「年をとるとそんなのは出てきますよ。」と言われました。原爆と関係がないという言葉になるのですが、本当に大丈夫かと心配になってくるのです。こうも考えて自分を安心させたりもします。『私は 8月6日中に広島市内から脱出したのだから、放射能が体に影響することは少ないのではないか』と。
自分の体の事なのに、自分が受けた原爆のことなのに、自分は何もわかってはいない。自分にできることは、過労にならないように、自分のペースを知って、そのペースで生活すること位なのです。
私がもし医者であったら、自分の体のこと、原爆のことがわかるだろうか。いや、やはり わかりはしない。人体への影響については、部分的にわかっているのだろうが、全面的には何もわかってはいない。だから、アメリカは、人体への影響についてのデータをいろんな角度から集めているのです。
其の5に続く
顔の火傷はひどく、目からはうみがいつまでも出るし、女の子ではあるしと、親たちは心配しました。そのために顔には、他のところよりたくさん薬をつけたりしたためか、わりによく治っています。しかし、手の方は、くっきりと火傷の跡が残ってしまいました。
私が 大学生の頃 父が「火傷の跡を手術するか?」と言ったことがあります。その話を素直に受けとれず、なぜそうまでしなくてはいけないのか と反発を感じました。どういう言葉で その場の反応をしたか覚えていませんが、手術の話は 何となくと切れてしまいました。こうして書きながら 父の気持ちを考えてみると、若い娘への思いやりで、おずおずと手術の話をしたのだと思います。やはり 父の心にも終戦が完全には来ていなかったのだと思えるのです。その父も本当の意味の終戦を迎えずに 昨年8月7日他界してしまいました。
私への原爆の影響は、火傷の跡を残したことだけではありません。大学生の頃から、過労になると、股(もも)の部分に、打ったわけでもないのに、指でおさえた位のうすい青い点が出るようになったのです。それは 私の体調を知るバロメーターのようなものになっています。それが出た時には、これはいけないな、と少し注意をして生活をしていますと、消えていきます。自分で、『ああ、少し疲れたな。少し休まなければいけないぞ。』と思っている時に出てくれると、『そうだろう。疲れているからな。』と思いますが、自分でその自覚がない時に出る場合は、少々がっくりするのです。
病院で、そのことを尋ねて、みても、「年をとるとそんなのは出てきますよ。」と言われました。原爆と関係がないという言葉になるのですが、本当に大丈夫かと心配になってくるのです。こうも考えて自分を安心させたりもします。『私は 8月6日中に広島市内から脱出したのだから、放射能が体に影響することは少ないのではないか』と。
自分の体の事なのに、自分が受けた原爆のことなのに、自分は何もわかってはいない。自分にできることは、過労にならないように、自分のペースを知って、そのペースで生活すること位なのです。
私がもし医者であったら、自分の体のこと、原爆のことがわかるだろうか。いや、やはり わかりはしない。人体への影響については、部分的にわかっているのだろうが、全面的には何もわかってはいない。だから、アメリカは、人体への影響についてのデータをいろんな角度から集めているのです。
其の5に続く
傷あと-私と家族の被爆記- 其の3 [傷あと-私と家族の被爆記]
楽々園の救護所は、兵隊さん達がテントをはって作ったものでしたが、どれ位の医薬品があったのか知りません。それでも姉は、顔の切り傷(ガラスで切ったようです)を何針か縫いあわせてもらいました。
私にとっては、包帯の取りかえは痛く「兵隊のバカ!兵隊のバカ!」と叫んだものです。そんな時、兵隊さんが毛糸でつくった人形や、貝を布でくるんだ飾りをくれました。もしかすると、それらは 兵隊さん達にとっては 大切な品で、いつでも身につけておきたい位のものだったのではないかと今にして思うのです。
三番目の姉、博子は、皆実町方面の学校に寝かされていたのを父がやっとの思いで見つけ出し、10日頃に五日市の家に帰って来ました。
姉は学校の校庭に整列するために下ぐつにはきかえている時に被爆しました。その当時は目立つ色はいけないとされ、真夏でも 黒っぽいものを着ていました。屋根のある所だったのですが、光を全面的に吸収したためか、背中に火傷を負いました。姉が自分で歩いてその学校まで行ったのか どうかは、よくわかりませんが、背中の火傷の部分に 習字の紙(文字の書いてある紙)がはってあり、床の上にじかに寝かされていたのです。多くのけが人で、どの教室も一パイでした。父は人づてにその学校にいるらしいと聞いて探しに行ったのですが、自分の子どもを探すことは困難で、大声で
「吉村博子はおらんか! 吉村博子はおらんか!」
と叫びつつ各教室をまわったのです。足もとにいる我が子さえ見わけがつかない位の変貌でした。足もとの方からの
「お父ちゃん!」
という声でやっと見つけることができたのです。背中の火傷は、床の板とくっつき、その間にうじが一パイでした。一日におも湯2杯を食べさせてもらい、それで生命をつないでいたのです。
父は自転車の上に2枚の板をしき、その上に姉を寝かせて、煉瓦を前にぶらさげて、姉の上に布をかけて、休み休みして、歩いて 五日市の家まで帰って来ました。途中多くの人が、もう死んでいるものと「南無阿弥陀仏」と手をあわせておがむのです。そのたびに「まだ 死んじゃおらんよ!」と言ったのです。
五日市に着いた時は 夕方だったように思いますが、姉は ことのほか元気で、「ただ今!」と大声でいいました。家の中にいても わかる位の声でした。
姉はもともと明るい性格でした。よく妹たちの面倒を見て、子守りをしました。歌が好きで、よく歌を歌っていました。おやつをもらうと、とっておかないですぐ食べてしまうようなカラッとした姉でした。その姉が、背中全部に火傷をして、それでも、元気な声で 帰って来たのです。しかし、その元気な声とは 裏腹に、体は随分衰弱していました。自分で体を起こすことも、寝巻を着替えることもできません。また、背中の火傷の中にいるうじが、取っても取ってもとり切れず、肉の中の方へ喰い込む始末でした。その時は 随分痛がりました。背中の肉はくさくなり、部屋中が、その臭いで一パイでした。おじやいとこ達がよく我慢をしてくれたと思います。
敗戦となるまで、何度も飛行機が上空を飛びました。また爆弾を落としはしないかと、みんなこわがりました。今度はひどいけがをしているので逃げることができません。だから病人のまわりに布団などをつみ重ねたりしたものです。
8月15日の敗戦のラジオ放送の時には、1台のラジオを廊下に出して、そのまわりに みんな集まりました。ある者は 庭で直立不動で、ある者は廊下に正座して聞きました。放送が終わると、大人達はわっと泣き出しました。私が泣いたかどうか覚えていませんが、何かホッとしたように覚えています。
『これで戦争は終わった!これで飛行機がきてもビクビクする必要はない』と、子ども心に安堵しました。
姉の博子が死んだ日(8月17日)のことは、はっきりと私の脳裏に残っています。おお人数の朝食ですから、床から出られない姉は、みんなが終わって母などに食べさせてもらっていました。その朝も そのつもりでした。だから、姉(博子)が
「おかあちゃん! 来て!」
と叫んだ時も、母は
「ちょっと 待ってね」
と言ったのです。そして 朝食を持って行ってみると、すでに 姉の息はとだえていました。母が大きな声で
「博子ちゃん! 博子! 博子!」
と名を呼んではみたものの、姉は再び声を出しはしませんでした。
なぜか、姉の葬儀については何一つ覚えていません。のちに、母に尋ねると、五日市の火葬場へ運んで焼いたということです。子どもの私は、きっと留守番をしていたのでしょう。
姉の博子がなくなって、しばらくして、山県郡の疎開先へ行きました。その頃、よく効くということで、呉の方から手に入れた薬を使用しはじめました。その頃から、私も姉も傷がなおりはじめました。
田舎では「町の人が贅沢をするから 罰が当たったんだ」と嘲笑されました。だから、何か悪いことをして来たような気分で生活しました。母は早く広島へ帰ろうという気持ちで一パイのようでした。
9月に大雨が降りましたが、疎開していた所は 洪水にはなりませんでした。川のそばのいも畑などは流されたりして、水の引いた川原には、流木や、いもがありました。わたし達はみんなより少しおくれて行ったものですから、芋はあまり拾えませんでした。それでも持って帰った芋を誰に気がねもせずに食べられるのが、とても うれしかったです。
しばらくして 手まわりのものだけ持って広島へ帰って来ました。
広島の家は、叔父の家の跡へ建っており、バラックでした。六畳一間に戸のついていない押し入れのある部屋と、土間に簡単な流しとポンプのある家でした。天井はなく、屋根のトタンは穴があいていました。だから雨もりもしました。それでもうれしかったのです。まわりの人達はみんな町の人たちです。ピカドン(原爆のことをそう言っていました)にあった者ばかりです。その家には、すでに父と兄が住んでいました。兄は、9月の大洪水の話をしました。押し入れの棚のところまで水が来て、その棚の上にあがっていたのだそうです。
その大洪水は広島にとって 恵みの雨だったと、ある物理学の先生から聞いたのは ごく最近のことです。地中に残留する放射能の量は、その雨でずっと少なくなっただろうということでした。あの大洪水がなかったら もっとたいへんなことが広島でおこっていたでしょう。
広島での生活は、原始的なものでした。あかりも、道具も、ラジオも、新聞もなく、暗くなれば寝るというものでした。横川駅の近くの軍の倉庫へ、アルミニュウムの食器やかめ(ものを入れる器)をとりに行ったり、ローソク工場の焼け跡へ ローソクを探しに 近所の人たちを誘っては行っていました。めずらしいものが手に入ると、みんなでわけていました。
父は疎開させていた針を持って帰って、それを売りました。よく売れたようです。少し 大きな家を、バラックのそばに建てました、風呂も、便所も露天でなくなりましたが、天井はありませんでした。屋根の下に大きな梁があり、それにブランコをぶらさげて、妹たちは遊びました。夜、近くの兄の友人達が来て話している時、上からそのブランコが落ちて頭に当たったりしたことは、今では思いでの一つになっています。
もとの家のところ(原爆投下まであった自宅のところ)に、工場も建て、本建築の家を宮大工にたのんで建てました。その頃 母は10番目の子どもを身ごもり 新しい家で出産しました。昭和22年11月のことです。
朝鮮戦争がおこった時です。座敷のすみで父が一人「これで景気がよくなるぞ!」と言ったことを 私はしっかり聞いて覚えています。私は不思議に思いました。
『戦争が起こるとなぜ景気がよくなるのか。まして 直接戦争に関係のない針のような物品がなぜ売れるのか。父は、ついこの間の戦争で 自分の子どもを2人も失っている。生き残った子どもの中の2人は、大けがや大やけどを負って、その跡も残ってしまっている。戦争でうけた心身の傷はまだまだなまなましいはずであるのに、一体 何を考えているのだろう。他の国のできごととはいえ、すぐ隣りの国であるのに』と
父のその言葉は いつまでも忘れられず、戦争がおこれはせ景気が良くなるという論理もなかなか分からず、大人になってやっと理解できてきたのです。父のその言葉を聞いてから、父に対する子どもの思いは変わってしまいました。何か冷たい父の裏をのぞいてしまった、見てはいけない父をみてしまった、という気持ちがずっと続いていました。父のその言葉が、当たっておらず、景気がよくならなければよかったのでしょうが、父の会社だけでなく日本全国が景気をもりあげできたのです。父の見る目が確かだったので、なおのことよくありませんでした。しかし、日本全国の景気がよくなっても私の心身の痛手はいやされはしませんでした。
私にとっては、包帯の取りかえは痛く「兵隊のバカ!兵隊のバカ!」と叫んだものです。そんな時、兵隊さんが毛糸でつくった人形や、貝を布でくるんだ飾りをくれました。もしかすると、それらは 兵隊さん達にとっては 大切な品で、いつでも身につけておきたい位のものだったのではないかと今にして思うのです。
三番目の姉、博子は、皆実町方面の学校に寝かされていたのを父がやっとの思いで見つけ出し、10日頃に五日市の家に帰って来ました。
姉は学校の校庭に整列するために下ぐつにはきかえている時に被爆しました。その当時は目立つ色はいけないとされ、真夏でも 黒っぽいものを着ていました。屋根のある所だったのですが、光を全面的に吸収したためか、背中に火傷を負いました。姉が自分で歩いてその学校まで行ったのか どうかは、よくわかりませんが、背中の火傷の部分に 習字の紙(文字の書いてある紙)がはってあり、床の上にじかに寝かされていたのです。多くのけが人で、どの教室も一パイでした。父は人づてにその学校にいるらしいと聞いて探しに行ったのですが、自分の子どもを探すことは困難で、大声で
「吉村博子はおらんか! 吉村博子はおらんか!」
と叫びつつ各教室をまわったのです。足もとにいる我が子さえ見わけがつかない位の変貌でした。足もとの方からの
「お父ちゃん!」
という声でやっと見つけることができたのです。背中の火傷は、床の板とくっつき、その間にうじが一パイでした。一日におも湯2杯を食べさせてもらい、それで生命をつないでいたのです。
父は自転車の上に2枚の板をしき、その上に姉を寝かせて、煉瓦を前にぶらさげて、姉の上に布をかけて、休み休みして、歩いて 五日市の家まで帰って来ました。途中多くの人が、もう死んでいるものと「南無阿弥陀仏」と手をあわせておがむのです。そのたびに「まだ 死んじゃおらんよ!」と言ったのです。
五日市に着いた時は 夕方だったように思いますが、姉は ことのほか元気で、「ただ今!」と大声でいいました。家の中にいても わかる位の声でした。
姉はもともと明るい性格でした。よく妹たちの面倒を見て、子守りをしました。歌が好きで、よく歌を歌っていました。おやつをもらうと、とっておかないですぐ食べてしまうようなカラッとした姉でした。その姉が、背中全部に火傷をして、それでも、元気な声で 帰って来たのです。しかし、その元気な声とは 裏腹に、体は随分衰弱していました。自分で体を起こすことも、寝巻を着替えることもできません。また、背中の火傷の中にいるうじが、取っても取ってもとり切れず、肉の中の方へ喰い込む始末でした。その時は 随分痛がりました。背中の肉はくさくなり、部屋中が、その臭いで一パイでした。おじやいとこ達がよく我慢をしてくれたと思います。
敗戦となるまで、何度も飛行機が上空を飛びました。また爆弾を落としはしないかと、みんなこわがりました。今度はひどいけがをしているので逃げることができません。だから病人のまわりに布団などをつみ重ねたりしたものです。
8月15日の敗戦のラジオ放送の時には、1台のラジオを廊下に出して、そのまわりに みんな集まりました。ある者は 庭で直立不動で、ある者は廊下に正座して聞きました。放送が終わると、大人達はわっと泣き出しました。私が泣いたかどうか覚えていませんが、何かホッとしたように覚えています。
『これで戦争は終わった!これで飛行機がきてもビクビクする必要はない』と、子ども心に安堵しました。
姉の博子が死んだ日(8月17日)のことは、はっきりと私の脳裏に残っています。おお人数の朝食ですから、床から出られない姉は、みんなが終わって母などに食べさせてもらっていました。その朝も そのつもりでした。だから、姉(博子)が
「おかあちゃん! 来て!」
と叫んだ時も、母は
「ちょっと 待ってね」
と言ったのです。そして 朝食を持って行ってみると、すでに 姉の息はとだえていました。母が大きな声で
「博子ちゃん! 博子! 博子!」
と名を呼んではみたものの、姉は再び声を出しはしませんでした。
なぜか、姉の葬儀については何一つ覚えていません。のちに、母に尋ねると、五日市の火葬場へ運んで焼いたということです。子どもの私は、きっと留守番をしていたのでしょう。
姉の博子がなくなって、しばらくして、山県郡の疎開先へ行きました。その頃、よく効くということで、呉の方から手に入れた薬を使用しはじめました。その頃から、私も姉も傷がなおりはじめました。
田舎では「町の人が贅沢をするから 罰が当たったんだ」と嘲笑されました。だから、何か悪いことをして来たような気分で生活しました。母は早く広島へ帰ろうという気持ちで一パイのようでした。
9月に大雨が降りましたが、疎開していた所は 洪水にはなりませんでした。川のそばのいも畑などは流されたりして、水の引いた川原には、流木や、いもがありました。わたし達はみんなより少しおくれて行ったものですから、芋はあまり拾えませんでした。それでも持って帰った芋を誰に気がねもせずに食べられるのが、とても うれしかったです。
しばらくして 手まわりのものだけ持って広島へ帰って来ました。
広島の家は、叔父の家の跡へ建っており、バラックでした。六畳一間に戸のついていない押し入れのある部屋と、土間に簡単な流しとポンプのある家でした。天井はなく、屋根のトタンは穴があいていました。だから雨もりもしました。それでもうれしかったのです。まわりの人達はみんな町の人たちです。ピカドン(原爆のことをそう言っていました)にあった者ばかりです。その家には、すでに父と兄が住んでいました。兄は、9月の大洪水の話をしました。押し入れの棚のところまで水が来て、その棚の上にあがっていたのだそうです。
その大洪水は広島にとって 恵みの雨だったと、ある物理学の先生から聞いたのは ごく最近のことです。地中に残留する放射能の量は、その雨でずっと少なくなっただろうということでした。あの大洪水がなかったら もっとたいへんなことが広島でおこっていたでしょう。
広島での生活は、原始的なものでした。あかりも、道具も、ラジオも、新聞もなく、暗くなれば寝るというものでした。横川駅の近くの軍の倉庫へ、アルミニュウムの食器やかめ(ものを入れる器)をとりに行ったり、ローソク工場の焼け跡へ ローソクを探しに 近所の人たちを誘っては行っていました。めずらしいものが手に入ると、みんなでわけていました。
父は疎開させていた針を持って帰って、それを売りました。よく売れたようです。少し 大きな家を、バラックのそばに建てました、風呂も、便所も露天でなくなりましたが、天井はありませんでした。屋根の下に大きな梁があり、それにブランコをぶらさげて、妹たちは遊びました。夜、近くの兄の友人達が来て話している時、上からそのブランコが落ちて頭に当たったりしたことは、今では思いでの一つになっています。
もとの家のところ(原爆投下まであった自宅のところ)に、工場も建て、本建築の家を宮大工にたのんで建てました。その頃 母は10番目の子どもを身ごもり 新しい家で出産しました。昭和22年11月のことです。
朝鮮戦争がおこった時です。座敷のすみで父が一人「これで景気がよくなるぞ!」と言ったことを 私はしっかり聞いて覚えています。私は不思議に思いました。
『戦争が起こるとなぜ景気がよくなるのか。まして 直接戦争に関係のない針のような物品がなぜ売れるのか。父は、ついこの間の戦争で 自分の子どもを2人も失っている。生き残った子どもの中の2人は、大けがや大やけどを負って、その跡も残ってしまっている。戦争でうけた心身の傷はまだまだなまなましいはずであるのに、一体 何を考えているのだろう。他の国のできごととはいえ、すぐ隣りの国であるのに』と
父のその言葉は いつまでも忘れられず、戦争がおこれはせ景気が良くなるという論理もなかなか分からず、大人になってやっと理解できてきたのです。父のその言葉を聞いてから、父に対する子どもの思いは変わってしまいました。何か冷たい父の裏をのぞいてしまった、見てはいけない父をみてしまった、という気持ちがずっと続いていました。父のその言葉が、当たっておらず、景気がよくならなければよかったのでしょうが、父の会社だけでなく日本全国が景気をもりあげできたのです。父の見る目が確かだったので、なおのことよくありませんでした。しかし、日本全国の景気がよくなっても私の心身の痛手はいやされはしませんでした。
傷あと-私と家族の被爆記- 其の2 [傷あと-私と家族の被爆記]
ピカッとひかったところまでは知っています。気づいた時は、建物の中側の窓の下に倒れていました。机も椅子も畳もその下の座板もありませんでした。私も妹も土の上にいたのです。おばは玄関のあたりに、妹はその少し手前で、2人とも気づいて立ち上がろうとしていました。机や椅子や、畳やその下にあるはずの座板は、私達が窓から落ちる前に一体どこへ飛んで行ったのでしょうか。あれだけの重さのものが一度にです。それもほんの短い間に。幸いに叔父の家は新築して間がなかったので倒壊しませんでした。私はゆっくり立ち上がり、外に出ました。まわりの家々は、少々古かったせいか、ほとんどの家は倒れて、その上に屋根がありました。外では近所のおばあさんが石垣の下敷きになって「助けてェー 助けてェー」と叫んでいました。その人を助けようと、お嫁さんが石をのけようとしていましたが、なかなかのけられません。おばも手伝いはじめました。しかし、女の腕では、どうすることも出来ませんでした。その時はまだ火の手は来ていませんでした。ふと気がつくと少し離れた所にまだくずれずに残っている二階建の窓が、パッと火を吹いてもえはじめているのです。それを見ると急にこわくなり、一人で、ペシャンコになった家の屋根の上を歩いて横川(今の中広中学校の北側は川で、それを横川と行っていました。そこに土手があったのです)の土手まで来て、その土手を西へ向かい、中広線(今はもうありません)を渡りました。渡って川原へ出ました。逃げる人達が川原へ行っていたためでしょう。ふとふり返ってみると、今 渡って来た橋が、両端からもえはじめているのです。川原のそばの竹藪のところに、多くの人達が座っていました。私が座って休んだかどうかは覚えていません。蟻の行列のように、一列、川を渡っている人たちがいます。私は その列になんとなく加わりました。子どものわたくしには少し深かったので少々困っておりますと、私の前を歩いていたおばさんが、私を抱いて渡ってくれました。そのおばさんはきゅうりを数本持っていました。
私は、姉たちが日やけしたり、ちょと熱い物を持ったりして 火傷した時に、きゅうりを切ってつけたりしているのを思い出したのか『きゅうりをもらって 火傷につければ、早く治るのに』と思いました。だから、自分が火傷をしているのを、すでに その時 わかっていたのでしょう。打越町のあたりを 山の方へ向けて歩いていると、偶然にも五日市のおじと親戚のおじいさんが 一緒に歩いているのに出会いました。私から名乗って、おじの背中に負われて己斐あたりの救護所へ行きました。すでに たくさんのけが人が、行列をつくって治療を待っていました。おじは、知人が居たのか
「自分の娘なのだから、早くしてくれ。」
と言って、私をつれて前列に行き、薬をつけてもらい、顔じゅうに包帯を巻いてもらって、五日市のおじの家につれて行ってくれました。どの道を通って行ったのかわかりません。
五日市の伯母の家には、すでに 母が妹をつれて着いていました。母達は、己斐で満員の電車を見送って、次の電車を待っていた時に 被爆しました。丁度、電車の影になって、光線はあびないですみました。横川の方までひどいとは思いもせず、家の方へ電話連絡しようとしても連絡がとれず、五日市の家まで、石内の峠を越えて歩いて来たのです。広島の状態を人の話で聞くと、たいへんなことになっているらしいので、子どもにはもう逢えないのかと思っていたようです。私が来たものだから 本当に喜びました。おじは、私を母に渡すと また広島へと引きかえしていきました。
次の日くらいだったでしょうか。大八車で、おばやいとこや姉2人妹たちが、五日市の家に来ました。一度にけが人や病人で家の中は一パイになり、その世話でたいへんでした。私は顔、手、首などを火傷しており、すぐ上の姉は、顔、足の股(もも)にガラスで大けがをしていました。その姉と私を大八車に乗せて、母は楽々園の救護所まで 何度も通ったのです。母も下痢やはき気が続き、食欲はなく、まわりの人達は 母の体の事を随分心配したのです。
其の3に続く
私は、姉たちが日やけしたり、ちょと熱い物を持ったりして 火傷した時に、きゅうりを切ってつけたりしているのを思い出したのか『きゅうりをもらって 火傷につければ、早く治るのに』と思いました。だから、自分が火傷をしているのを、すでに その時 わかっていたのでしょう。打越町のあたりを 山の方へ向けて歩いていると、偶然にも五日市のおじと親戚のおじいさんが 一緒に歩いているのに出会いました。私から名乗って、おじの背中に負われて己斐あたりの救護所へ行きました。すでに たくさんのけが人が、行列をつくって治療を待っていました。おじは、知人が居たのか
「自分の娘なのだから、早くしてくれ。」
と言って、私をつれて前列に行き、薬をつけてもらい、顔じゅうに包帯を巻いてもらって、五日市のおじの家につれて行ってくれました。どの道を通って行ったのかわかりません。
五日市の伯母の家には、すでに 母が妹をつれて着いていました。母達は、己斐で満員の電車を見送って、次の電車を待っていた時に 被爆しました。丁度、電車の影になって、光線はあびないですみました。横川の方までひどいとは思いもせず、家の方へ電話連絡しようとしても連絡がとれず、五日市の家まで、石内の峠を越えて歩いて来たのです。広島の状態を人の話で聞くと、たいへんなことになっているらしいので、子どもにはもう逢えないのかと思っていたようです。私が来たものだから 本当に喜びました。おじは、私を母に渡すと また広島へと引きかえしていきました。
次の日くらいだったでしょうか。大八車で、おばやいとこや姉2人妹たちが、五日市の家に来ました。一度にけが人や病人で家の中は一パイになり、その世話でたいへんでした。私は顔、手、首などを火傷しており、すぐ上の姉は、顔、足の股(もも)にガラスで大けがをしていました。その姉と私を大八車に乗せて、母は楽々園の救護所まで 何度も通ったのです。母も下痢やはき気が続き、食欲はなく、まわりの人達は 母の体の事を随分心配したのです。
其の3に続く
傷あと-私と家族の被爆記- 其の1 [傷あと-私と家族の被爆記]
傷あと
-私と家族の被爆記-
嘉屋重 順子 45才(昭和59年時点)
「あさ」に、はじめて寄稿して15年になります。1969年8月に書き、次の年の号にのせたのです。私は会員ではありませんが、一、二度学習会に出席し、いろんな集会にも一緒に参加して、多くのことを山下会から学びました。また母と姉の原爆手記も、その本に載せました。「戦争はいやだ」を言葉に書いて、それが大ぜいの人達の目にふれたということは、自分の考え方をしっかりと前へ向けさせたのです。
その後、数度、修学旅行で来広した高校生や中学生へ私の体験を話しました。背中に火傷を負い、そこにうじ虫がいる中で死んでしまった姉のこと。氷を買いに行って行方不明になっている姉のこと。自分のこと。8月6日のことなどを…。どの高校生も中学生もみんな真剣に話を聞いてくれました。これならきっとこの生徒たちは 平和を築く担い手になってくれるだろうと思える位に。
私は 今の学校に転勤して15年目になります。その間、毎年7月から9月にかけて、平和教育にとり組んできました。(わたし達の学校は学校全体でとり組んでいます)でも、そのとき、自分の体験を学級の生徒に話した位で、学年全体の生徒の前で 話したことはないのです。他の学校の生徒さんには話をして、自分の学校の生徒達に話をしないのはおかしいと思います。私が今まで話をしなかったのは、子ども達のまわりにいる大人達に戦争の体験者がいて、子ども達は戦争の残忍さを聞くおりも多かったのです。だから、あらためて 話をする必要はないようにも思えたのです。また つらいことはあえて話したくないものです。
しかし、今は 以前の状態とは大きく変わって来ています。戦後うまれの保護者や教師が多くなって来ていますし、戦争の体験を語れる者は私達の年代が最年少になるのです。
原爆の問題は過去のことではなく、今の地球の人々を死に追いやるかどうかのところまで来ています。今、教えている子ども達が生活している学校のグランドでは、多くの被爆死亡者が山づみにされて焼かれました。そんなことなどを考えて、私は、学校の中で、一年生の生徒全体の前で、被爆体験の話をすることにしたのです。そのことは、より自分の姿勢を正すことになるでしょう。「十フィート運動」でできた「人間をかえせ」の映画を見る前に話をするとこになりました。何をどのように話すかを考えている時と この文章をかく時が重なりましたので、その内容と重ねながら書いてみようと思います。
昭和20年8月の私の家族は次のようでした。
父(当時48才)
戦争には行っていませんでした。兵隊検査に合格しなかったようです。針工場を経営。
岡山にも工場がありました。
母(当時39才)
子どもを9人出産し、男の子(当時大学生)を頭に8人も女の子を出産していますが、長女は10才
で病死しました。他はみんな元気に育てておりました。昭和20年5月頃子ども5人をつれて山県
郡へ疎開していましたが、五日市の伯母の家へ 病気見舞いに行くため、子どもを連れて広島へ
帰っていました。
兄(当時20才)
大学生でしたが 徴兵になり山口におりました。
一番目の姉(当時すでに死亡=10才で病死)
二番目の姉(当時17才)=英子
女学生で勤労奉仕で日本製鋼所へ行っていました。当日は休んで家にいました。
三番目の姉(当時15才)=博子
女学生で勤労奉仕で学校へ出かけていました。当日、進徳女学校で被爆しました。
四番目の姉(当時12才)=道子
六年生で、家族疎開をしていましたが、広島へ帰って来ていました。当日は横川の店へ氷を買い
に行っていました。乗って行った自転車は店の前にありましたが、本人は行方不明のままです。
五番目の姉(当時10才)=勝子
四年生で、姉の英子と一緒に家にいました。
私 (当時6才)=順子
一年生で 当日は家の近くの叔父の家へ、妹と一緒に遊びに行っていました。
妹 (当時3才)=富美枝
私と一緒に パンツ一枚の姿で叔父の家に遊びに行っていました。
妹 (当時11ヶ月)=淑子
当日、五日市の伯母の家に行く予定で、母の背に負われて出ていました。
8月6日の朝は、天気が良く、姉の英子と母は 早くから洗濯をしていました。母と妹が外出した後、私は3才の富美枝をつれて、近所の叔父の家に遊びに行きました。叔父の家には4人の男の子がいましたが、下の2人は私と年の違わないいとこでした。その朝も、一番下のいとこと妹と私は、勉強部屋で レコードを聞いていました。おばは掃除をしていました。その時、B29が飛んで来ました。私といとこは B29をよく見ようとして 机の上にあがり、そこから窓のレールに立ちました。B29は朝の太陽をあびてキラキラと光っていました。戦争のまっ最中であるのに、平和時のように、ゆったりと相手国の飛行機を見ていたのです。その飛行機が世界ではじめて人類の上に原爆を投下するとはつゆ知らず。
-私と家族の被爆記-
嘉屋重 順子 45才(昭和59年時点)
「あさ」に、はじめて寄稿して15年になります。1969年8月に書き、次の年の号にのせたのです。私は会員ではありませんが、一、二度学習会に出席し、いろんな集会にも一緒に参加して、多くのことを山下会から学びました。また母と姉の原爆手記も、その本に載せました。「戦争はいやだ」を言葉に書いて、それが大ぜいの人達の目にふれたということは、自分の考え方をしっかりと前へ向けさせたのです。
その後、数度、修学旅行で来広した高校生や中学生へ私の体験を話しました。背中に火傷を負い、そこにうじ虫がいる中で死んでしまった姉のこと。氷を買いに行って行方不明になっている姉のこと。自分のこと。8月6日のことなどを…。どの高校生も中学生もみんな真剣に話を聞いてくれました。これならきっとこの生徒たちは 平和を築く担い手になってくれるだろうと思える位に。
私は 今の学校に転勤して15年目になります。その間、毎年7月から9月にかけて、平和教育にとり組んできました。(わたし達の学校は学校全体でとり組んでいます)でも、そのとき、自分の体験を学級の生徒に話した位で、学年全体の生徒の前で 話したことはないのです。他の学校の生徒さんには話をして、自分の学校の生徒達に話をしないのはおかしいと思います。私が今まで話をしなかったのは、子ども達のまわりにいる大人達に戦争の体験者がいて、子ども達は戦争の残忍さを聞くおりも多かったのです。だから、あらためて 話をする必要はないようにも思えたのです。また つらいことはあえて話したくないものです。
しかし、今は 以前の状態とは大きく変わって来ています。戦後うまれの保護者や教師が多くなって来ていますし、戦争の体験を語れる者は私達の年代が最年少になるのです。
原爆の問題は過去のことではなく、今の地球の人々を死に追いやるかどうかのところまで来ています。今、教えている子ども達が生活している学校のグランドでは、多くの被爆死亡者が山づみにされて焼かれました。そんなことなどを考えて、私は、学校の中で、一年生の生徒全体の前で、被爆体験の話をすることにしたのです。そのことは、より自分の姿勢を正すことになるでしょう。「十フィート運動」でできた「人間をかえせ」の映画を見る前に話をするとこになりました。何をどのように話すかを考えている時と この文章をかく時が重なりましたので、その内容と重ねながら書いてみようと思います。
昭和20年8月の私の家族は次のようでした。
父(当時48才)
戦争には行っていませんでした。兵隊検査に合格しなかったようです。針工場を経営。
岡山にも工場がありました。
母(当時39才)
子どもを9人出産し、男の子(当時大学生)を頭に8人も女の子を出産していますが、長女は10才
で病死しました。他はみんな元気に育てておりました。昭和20年5月頃子ども5人をつれて山県
郡へ疎開していましたが、五日市の伯母の家へ 病気見舞いに行くため、子どもを連れて広島へ
帰っていました。
兄(当時20才)
大学生でしたが 徴兵になり山口におりました。
一番目の姉(当時すでに死亡=10才で病死)
二番目の姉(当時17才)=英子
女学生で勤労奉仕で日本製鋼所へ行っていました。当日は休んで家にいました。
三番目の姉(当時15才)=博子
女学生で勤労奉仕で学校へ出かけていました。当日、進徳女学校で被爆しました。
四番目の姉(当時12才)=道子
六年生で、家族疎開をしていましたが、広島へ帰って来ていました。当日は横川の店へ氷を買い
に行っていました。乗って行った自転車は店の前にありましたが、本人は行方不明のままです。
五番目の姉(当時10才)=勝子
四年生で、姉の英子と一緒に家にいました。
私 (当時6才)=順子
一年生で 当日は家の近くの叔父の家へ、妹と一緒に遊びに行っていました。
妹 (当時3才)=富美枝
私と一緒に パンツ一枚の姿で叔父の家に遊びに行っていました。
妹 (当時11ヶ月)=淑子
当日、五日市の伯母の家に行く予定で、母の背に負われて出ていました。
8月6日の朝は、天気が良く、姉の英子と母は 早くから洗濯をしていました。母と妹が外出した後、私は3才の富美枝をつれて、近所の叔父の家に遊びに行きました。叔父の家には4人の男の子がいましたが、下の2人は私と年の違わないいとこでした。その朝も、一番下のいとこと妹と私は、勉強部屋で レコードを聞いていました。おばは掃除をしていました。その時、B29が飛んで来ました。私といとこは B29をよく見ようとして 机の上にあがり、そこから窓のレールに立ちました。B29は朝の太陽をあびてキラキラと光っていました。戦争のまっ最中であるのに、平和時のように、ゆったりと相手国の飛行機を見ていたのです。その飛行機が世界ではじめて人類の上に原爆を投下するとはつゆ知らず。
「山下会」について あさ第18号より [山下会]
「山下会」について
この会は、広島に住む母親の学習サークルです。
1958年の春に勤務評定反対運動のなかで生まれたわたしたちのサークルには、はじめは名前がありませんでした。週に1回の集まりを欠かさず続けているうちに、1964年6月に会員の1人であった山下朝代さんが亡くなりました。積極的に活動していた彼女の生涯をしのんで、この時より、わたしたちの会を山下会と名づけました。
わたしたちは、いろんな学習を通じて、子どもたちに何かをしておりたいと考えてきました。そのことを話しあっている時、ふときづいてみると、集まった者のほとんどは被爆者でした。そこで、まず何より戦争から子どもの生命を守りたい、戦争を未然に防ぎとめたい、と願うようになりました。わたしたちはいつ原爆症で死ぬかもしれないが、わたしたちの体験してきた、戦争について、被爆について、原水爆禁止運動について、子どもに知ってもらいたいと書きつづってきました。微力ではあるが、戦争を防ぐことにつながると信じて『あさ』の発行をつづけてきたのであります。
これは、昭和59年7月25日に発行された、最終号にあたる第18号の
表紙をめくった扉のページに記載されています。
ひとつの原稿は、何ページにもわたる量です。
入力しやすそうな原稿から、その1、その2…と小分けにして
入力することが負担に感じない程度に、でも間延びしない、
そう心がけながらぼちぼちいこうと思います。
その間、本来の「ゆうきリンリン」、こちらも更新していきたいです。
この会は、広島に住む母親の学習サークルです。
1958年の春に勤務評定反対運動のなかで生まれたわたしたちのサークルには、はじめは名前がありませんでした。週に1回の集まりを欠かさず続けているうちに、1964年6月に会員の1人であった山下朝代さんが亡くなりました。積極的に活動していた彼女の生涯をしのんで、この時より、わたしたちの会を山下会と名づけました。
わたしたちは、いろんな学習を通じて、子どもたちに何かをしておりたいと考えてきました。そのことを話しあっている時、ふときづいてみると、集まった者のほとんどは被爆者でした。そこで、まず何より戦争から子どもの生命を守りたい、戦争を未然に防ぎとめたい、と願うようになりました。わたしたちはいつ原爆症で死ぬかもしれないが、わたしたちの体験してきた、戦争について、被爆について、原水爆禁止運動について、子どもに知ってもらいたいと書きつづってきました。微力ではあるが、戦争を防ぐことにつながると信じて『あさ』の発行をつづけてきたのであります。
これは、昭和59年7月25日に発行された、最終号にあたる第18号の
表紙をめくった扉のページに記載されています。
ひとつの原稿は、何ページにもわたる量です。
入力しやすそうな原稿から、その1、その2…と小分けにして
入力することが負担に感じない程度に、でも間延びしない、
そう心がけながらぼちぼちいこうと思います。
その間、本来の「ゆうきリンリン」、こちらも更新していきたいです。
「あさ ~草の根から平和を~」ならびに山下会について [山下会]
私の手元には「あさ 草の根から平和を」の18号があります。
平成20年夏、りんちゃんを産む前の年に帰省した際もらいました。
私には被爆体験を持つ叔母がいます。
子供がいないこともあってか、可愛がってもらっています。
会誌をもらった際、本当は叔母の事を知りたかったのです。
そして、できるならば叔母が生きた証を残したいと思っていたのです。
子供はいません。叔父と結婚する際、随分反対されたそうです。
叔父からすると、2番目の姉の結婚相手、私の伯父ですが、
唯一この人だけが2人の結婚に賛成してくれたそうです。
きっと肩身が狭かったのではないか、そう思います。
爆心地に近い所に家があったと聞いた覚えがあります。
家をなくし、お寺でお世話になったということも聞いたことがあります。
胆石、乳ガン、高血圧、叔母が病院と関わった病気です。
先日実家に電話をした際、昨年ペースメーカーを埋めたらしいと聞きました。
そんな叔母が会誌をくれた時のこと。いつもは明るい叔母ですが、
話を聞かせてもらって、いつかHP持ったら載せたいと言ったところ、
本棚から取り出した会誌を差し出しながら
「ここに書いてあるとおり。私は書いていないけれども。
でも、みんな同じような事が書いてあるから。」
ただそれだけ。それ以上は何も語ってくれませんでした。
りんちゃんを産み、産休復帰後パートを辞め、
時間が出来た昨年夏に会誌を手に取りちらりと読みました。
どう取りかかって良いのかよくわからないまま一年が経ちました。
まず取りかかろう、ブログに少しずつ載せてみよう。
本当は山下会の代表者に承諾していただくのが先決か、
そう思いましたが、とりあえずやってみることに…
平成20年夏、りんちゃんを産む前の年に帰省した際もらいました。
私には被爆体験を持つ叔母がいます。
子供がいないこともあってか、可愛がってもらっています。
会誌をもらった際、本当は叔母の事を知りたかったのです。
そして、できるならば叔母が生きた証を残したいと思っていたのです。
子供はいません。叔父と結婚する際、随分反対されたそうです。
叔父からすると、2番目の姉の結婚相手、私の伯父ですが、
唯一この人だけが2人の結婚に賛成してくれたそうです。
きっと肩身が狭かったのではないか、そう思います。
爆心地に近い所に家があったと聞いた覚えがあります。
家をなくし、お寺でお世話になったということも聞いたことがあります。
胆石、乳ガン、高血圧、叔母が病院と関わった病気です。
先日実家に電話をした際、昨年ペースメーカーを埋めたらしいと聞きました。
そんな叔母が会誌をくれた時のこと。いつもは明るい叔母ですが、
話を聞かせてもらって、いつかHP持ったら載せたいと言ったところ、
本棚から取り出した会誌を差し出しながら
「ここに書いてあるとおり。私は書いていないけれども。
でも、みんな同じような事が書いてあるから。」
ただそれだけ。それ以上は何も語ってくれませんでした。
りんちゃんを産み、産休復帰後パートを辞め、
時間が出来た昨年夏に会誌を手に取りちらりと読みました。
どう取りかかって良いのかよくわからないまま一年が経ちました。
まず取りかかろう、ブログに少しずつ載せてみよう。
本当は山下会の代表者に承諾していただくのが先決か、
そう思いましたが、とりあえずやってみることに…
ただいま準備中…
メインのブログが煩雑になったのではないかと気になり
山下会誌の記事はこちらのブログに移そうと思いました。
どうやったら効率よく移せるかなんて、よく調べもしないままに
「とりあえずやってみよう!」と取りかかってみました。
戦争、被爆、平和、草の根…
こういったことを語っている山下会誌の原稿を
順次ご紹介していこうと思っています。
しばらくお待ちくださいm(_ _)m
もしのぞいてみようと思った方、どうぞお立ち寄りください(^^)
メインブログ「ゆうきリンリン~ぼちぼちいこうか~」
http://rinrin-ponchan.blog.so-net.ne.jp/
山下会誌の記事はこちらのブログに移そうと思いました。
どうやったら効率よく移せるかなんて、よく調べもしないままに
「とりあえずやってみよう!」と取りかかってみました。
戦争、被爆、平和、草の根…
こういったことを語っている山下会誌の原稿を
順次ご紹介していこうと思っています。
しばらくお待ちくださいm(_ _)m
もしのぞいてみようと思った方、どうぞお立ち寄りください(^^)
メインブログ「ゆうきリンリン~ぼちぼちいこうか~」
http://rinrin-ponchan.blog.so-net.ne.jp/
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